清らかな水がある蒜山の
四季折々の美しさ

静かに見つめ 耳をかたむけ
この世界にある
豊かな自然と生きる命にとって
心地よいものをつくる

そうしてできる穀物と卵は
きっとやさしい味がする

ここに穏やかでまっすぐな
二人が描く世界がある

心地よいものを

「冬には子どもと一緒に雪遊びができるし、自然豊かなこの地域で過ごす毎日が好きで、この環境のおかげでおいしいものを作ることができます」
岡山県の最北部。北の山陰と南の山陽を分ける蒜山の麓にある真庭市旧中和村。ここで、自然栽培で穀物を作っている近藤亮一さんと、資源を循環させる飼料で養鶏をしている妻の温子さんは暮らしている。
「ここは標高500mの高原地帯で、昼夜の寒暖差が大きく、冷涼な気候です。冬は雪深く、目に見える世界が真っ白に染まる。その澄みきった空気が大地をゆっくりと潤し、豊かな雪解け水が春からの稲作を迎えてくれ、鶏たちはその水を飲みながら育ちます」
その自然のありがたさを感じている二人は、自分たちのことを優先し、何かを犠牲にしたり、消費したりするようなやり方は選ばない。それは今の時代において、とても非効率なことかもしれない。
「私たちにとって大切なのは、心地よさ。まわりに住む生物や自然、そして私たち自身。そのすべてに心地よいやり方で作ったものを『美味しい』と思いたい。穀物でも、土の排水性、風の吹き方、日光の当たり方、水のよさ…。田畑の外を含めたこのあたりの景色を作っているすべてがつながっていると思っています」
農家として自分たちの奥底にある想いをまっすぐに伝えるその目には、柔らかさとしなやかな強さが宿っている。

優しく生きる

世界は、目に映る光景だけではない。見えないところにも、人々は暮らし、生物や植物は呼吸し、自然は生きている。二人にとって見えない世界を想像するきっかけは、学生時代の経験にある。
東南アジアの暮らしに触れた大学時代に国際協力、そして農業に関心を持った温子さんは農村指導者を育てる学校法人「アジア学院」の研修に参加。一旦は生協で働いたものの「都会で働いてたのですが、もう少し違う生き方、田畑にいる暮らしがしたいと思うようになりました」と退職して入学を決意。亮一さんも学生時代にベトナムでボランティア活動を経験したことから国際協力への思いを強めた。ITの会社を辞めてアジア学院にボランティアとして働くようになり、そこで二人は出会うことになる。
「アジア学院では、毎年アジアやアフリカから学生、欧米からもボランティアを招き、共同生活をしながら有機農業やパーマカルチャーを学びました。さまざまな国籍を持つ人たちと触れ合う中で、自分がわかる、できる範囲でいいから、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしない仕事と暮らしがしたいと思うようになりました」
学校のモットーでもある「共に生きる」。その言葉のように、見えない世界にも優しい生き方ができないだろうか。想いは、日に日に募っていった。

農を通して届ける

自分たちの価値観がぼんやりと定まってゆくなかで、ひときわ亮一さんが惹かれたのは農場で働く人々の姿だった。
「自分たちが生きるために食べ物を作るってすごく尊い仕事だと思いました。時に厳しくもあるけれど、田畑や自然は歪みがなくまっすぐで美しい。そこから農を中心とした暮らしをしていきたいと思うようになりました」
温子さんもまた農に強く惹かれていき、学校法人を離れて二人は広島県へ。そこで2年間、一緒にNPO法人の立ち上げに関わりながら農的な暮らしを経験。そこでは、無農薬・無施肥・不耕起手作業・自給自足の生活をしていたが、理想を追い求める一方、現実的な問題にもぶつかった。
「広島での日々もいい時間ではあったんですが、生活費をギリギリでやりくりしながらで…。自給自足で良いと思うものを作るのはいいけど、それを自分たちが食べるだけで良いのだろうかと思いました。もっと農業に深く関わりながら生活としても続けていけ、思っていることを誰かに届けられるような農家になりたいと思うようになりました」
そんな頃、旧中和村で自然栽培をしている農家さんに出会い、一年間研修させてもらうことに。自分たちのやりたいことを実現する場所を決めかねていたが、そのご縁が二人を中和に引き寄せることになる。

地に足つけて

「良いものを作って、食べてほしいと願う一方で、自分たちの暮らしが犠牲にならないようにしたいと思っています。自分たちが豊かだと思える暮らしがあるからこそ、良いものを作ることができる。だから、私たちは、子どもとの時間も大切にしたいし、休みもきちんと取るようにしています」
理想だけを語るでもなく、自分たちが食べていくための現実だけを見るわけでもなく。自分たちがちゃんとこの地に足をつけて生き、農を通して想いを届けている。「この頃は、少しずつ想いを同じくする仲間とつながり、自分たちが作った作物を使って、味噌やお餅、煎餅など加工品も増えてきたんです」と嬉しそうな二人。
時には自然の厳しさも、生き物と対峙する難しさも感じることもあるが、それはこの世界に生きているという実感でもある。流れゆく中和での日々は、とても心地よい。
禾の名前は、一年を小さな季節にわけた七十二候の一つ「禾乃登(こくものみのる)」からつけた。 田の稲穂に米粒がたわわに実り穂を垂らすころ、秋の農村が黄金色に染まる情景が浮かぶ美しい言葉だ。少しずつ、少しずつ。二人が耕そうとしている景色は、これから美しく輝きを増してゆく。

Text & Photograph / Kazutoshi Fujita(僕ら、)

米農家の存在を祝福する

米農家の存在を祝福する

2026年06月02日

*冬に書きはじめていたものを時間差で投稿しました

窓の外に見える雪がみんな溶ければ、米農家として8年目の春がはじまります。これまでのわたしは、誰かに届いてほしい声やメッセージのようなものを特段持ち合わせていませんでした。お米をつくることはその道のり自体が自分にとっての喜びであり、その結果を誰かに求めてもらえば続けていくことができる、そうであったらうれしい、そんな個人的な営みだと思ってきました。今でも本質的な変化はありませんが、つい最近、自分のなかに新しいものが芽生えてきたのを感じています。それは、お米をつくる人、米農家がひとりでいいから増えたらいいな、という気持ちです。

 

 

そのきっかけは、昨年のこと、7年目がはじまるときのことでした。春のぽかぽかとした陽気のなかで田んぼに立っていたときにふと、あぁ、そういえば自分が研修でお世話になったとき蒜山耕藝の高谷ご夫妻は当時7年目だったなと思い出したのです。いろいろな状況は異なるものの、純粋に農家としての年月でいえばあのときのおふたりと同じになったんだなぁと感慨深く思いました。そうして研修時代のことを思い返しながら、もしもいま自分の目の前に研修を受けたいですなんて人が現れたら自分はどうするんだろうという疑問がわいてきました。うーーん、とすこし自問自答をしつつも、答えはすぐに出ていて、いや自分にはそんな余裕も器量もないし、他にいったほうがきっとあなたにとって有意義ですよって率直に答えそうだなと思いました。

農業の世界には研修といって実地で教えてもらいながら技術や考え方を身につける文化があります。研修生はある種の労働力でもあるので、海外から来られる技能実習生がいてくれないとまわらない農場もあるなんて、インターネットでのニュース程度ですが、聞いたこともあります。でもわたしの場合はそうではなくて、たしかに育てていただいたなという感覚がありました。そんなこともあって研修生の受け入れなんて、別にご相談もいただきませんが、わたしには無縁だなと考えていました。でもその反面、そのままでいいのかなという心の小さな声も聞こえてきました。

 

この社会には食べものが必要です。それをつくる人が必要です。それはきっとこれからも変わりません。昨年の冬はその大半を費やして数十冊の文献や本を読んでお米の歴史、特に品種改良や飢饉、税について学んでいました。食べもの、特に日本においては主食といえるお米は、あまりにも必要であるがために、それはずっと税の対象であり時代時代の権力によって管理されるものでありつづけました。それが戦後さまざまな社会変容を経て自由になり、田んぼからもお米からも人々は少しずつ距離をとっていきました。わたしがたびたび引用する漫画『夏子の酒』にもあるように、これからの田んぼは土地をもっている人が耕すのではなく、意志や情熱をもった人が耕すようになる、まさにそんな時代になっているのだと思っています。

わたしもそんなひとりです。誰に頼まれるでもなく農家を志し、地縁もなにもない蒜山に移り住み、一年一年とこの地に根を下ろしています。そのきっかけはアジア学院での一年間でした。アジアやアフリカから集う仲間たちと一緒に農の日々を過ごすうちに、自分のなかに小さななにかが芽生えたのだと思います。それから広島の農村での生活と農業研修を経て、少しずつそのなにかを大きくしていきました。種や田んぼが幾年も繋がってきたものであるように、わたしも誰かにもらった、この意志のようななにかを誰かに繋いでいかなければいけないような気がしてきているのです。そしてそれはわたし自身のためではなくて、漠然とした社会のために未来を生きる子どもたちのために自分も当事者のひとりとしてなにかを負っているような感覚があるという、これもまた個人的な動機による個人的な営みです。

前述のように、わたしには直接人に会ってなにかを伝えるのは難しいと思っています。それで、こうしてなにか言葉だけでも残せたらと考えたのです。一緒に田んぼに立つことでしか伝わらないものがあるし、それがほんとうのことだとも思うのですが、それでも自分にできることをやるしかないという諦めと祈りの文章を綴っていきます。

 

 

さてそれで、具体的にはなにを書けばいいのでしょうか。いつものようにゴールはわかっていませんが、まず正直にいま心に浮かんでくるのは、米農家ってすごくいい仕事だなぁという実感です。これはあまり見かけたことがありませんが、あたたかい人たちに囲まれている、そんな魅力をまずは書いていけたらと思います。

わたしのお米はそのほとんどを定期の方々に直接お届けして召し上がっていただいてますが、お米をつくってくれてありがとうと何度も何度も感謝の声をいただいたことがあります。なかでも心に残っているのは、これまではおいしいお米を食べたときに感謝の気持ちを伝えたくなるけれど、スーパーで買っているとそれができなくて悲しかった、いまは近藤さんに直接メッセージができてうれしい、というお話です。選んでくださった感謝を伝えるのはわたしのほうですよといつも思いますが、こんなにも感謝をいただくってすごいことですよね。

また、わたしの文章がとにかく長いからなのかもしれませんが、何人もの方々からご家庭の事情やどんな風に向き合ってくださっているのか、そんな個人的なお話をいただいてきました。その一通一通が、直接お会いする機会には恵まれず、もしかしたらこれからもずっとそうなのかもしれませんが、わたしにとっての心からの励みになっています。お米をつくる動機は内的なものですが、こういったあたたかい声に支えられているのもまたわたしの日々の実情です。

数年前、『ブルシット・ジョブ』なんていう本が話題になっていました(読んだことはありませんが、きっとちゃんと読むべきですね)。自分が人生の時間を捧げているこの仕事には意味があるのだろうか、これほどに大きく複雑になった社会においてはそんな疑念が湧くことがあるのも仕方のないことなのかもしれません。その一方で、誰かの食べものをつくる営みは社会にとって明確に必要性があります。自分の仕事を迷いなく信じられることも、わたしにとっては大きいなと思います。

 

それから、たくさんの方々にエールをいただくことがあります。すぐに思いつくのは農業研修中にお会いした、長崎・雲仙で活動されている奥津ご夫妻。当時どんな話をしたのかは覚えていませんが、わたしがこれから米農家を志していることを心から喜んでくれました。こんな人たちがいてくれるのならきっと自分も大丈夫だろうなってあたたかい気持ちに包まれたことをよく覚えています。わたしはそれまではずっと勤め人でした。父もずっと会社員でした。わりと脳天気なわたしでも見知らぬ土地で独立していく怖さが無かったといえば嘘になります。そんななか、おふたりの存在はわたしにとって大きな救いでした。実際に就農してからも、お米を召し上がっていただいたり、いろいろなところで応援していただいています。

暮らしている村の人たちもだいたいみんな優しいです。今年39歳になるわたしは自分自身をそれほど若いとも思っていませんが、村のなかでは永遠の若手です。普通に農作業をして、普通に暮らしているだけで、近藤くんは若いのにいつもようがんばっとる、夫婦ふたりで子どもを育てて大変だろう、無理するなよ、といつも言われます。みなさんが目にするわたしは画面越しの文章や写真なのですが、現実のわたしはずっとこの村にいます。その環境がとてもあたたかくて、わたしが農業をしていること、もっと言えばここで暮らしていること存在していること自体を喜ばしいと思ってもらえていると感じられること。この感覚は街にいた頃には知ることがありませんでしたし、あまり見たことも聞いたこともありません。でも人が生きていく上で、もしかしたらすごく大切なことなんじゃないかなとも思います。

食は万人にとって関係のあることで、どんな人とも接点があります。お米をつくっていると言えば誰にでも伝わります。ほんの100年ほど前には日本人の大半が従事していた当たり前に続いてきた当たり前の仕事です。自分のアイデンティティというか認知もシンプルになります。そうすると、なんというか、あまり余計なことを考えなくていいようになる感覚があります。これがいいことなのかどうかはわかりませんが、どちらかといえば外からの情報が過多になりがちな現代において、どっしりと構えていられる安心感のようなものもたしかにあります。

 

最後に、数年前に島根県立美術館で開催されていたチームラボによる「未来の遊園地と花と共に生きる動物たち」の企画展に遊びにいったときのことを。荘厳な美術館の建物にはいったときには、当時3歳だった息子は、え、今日こんなところで遊ぶの?と怪訝な表情を浮かべていました。しかし展示室に入ると目に入ってくる、騒ぎ走りまわる子どもたちと、彼らに連動して生き生きと活動する壁や床一面の動植物たちのデジタルアート、それを体で知覚した瞬間に、うわぁ~~~!と走りだし転げまわっていた彼の笑顔が忘れられません。自我が解放される、そんな表現がぴったりなものすごい空間でした。

そんなチームラボの代表である猪子寿之さんが、インタビュー動画のなかで語っていたことをおぼろげながら覚えています。曰く、一般の美術館では観覧者が多いことはいいことではない。作品を近くで見られない、ゆっくりと見られない、そんな理由から他者はあまり喜ばしいことではない。でもこのデジタルアートは違っていて、もしここに自分ひとりしかいなければあまり動きのない作品も、たくさんの人がいればもっともっと躍動感のあるいい作品になる。だからここでは他者が歓迎されるんです。そんな趣旨のことを話していました。

厳密にはいろいろと違う点があるのは重々承知のうえです。それでも、存在の祝福、そう言ったらすこし大袈裟かもしれませんが、わたしが米農家として感じることもここに近いような気がするのです。米農家は斜陽産業であるというニュースをたびたび見かけます。たしかにつくり手は減っているし、高齢化しているという実感もあります。日本全国でも毎年農地はものすごい勢いで減っています。それでも一定量のお米が社会全体に行き渡る必要があり、そのためには米農家という仕事に一定数従事してもらう必要がある、というのも一方では事実です。そういう大きな視点で見たときにも、飛び込んでみたらこうしてたくさんの人に受け入れてもらえる土壌があるというのは、なかなかにすごいことだと思います。米農家になってから、いろいろな方になにかを言われて、いえいえ、こちらこそです、ありがとうございますと答える機会がとても増えたように感じています。ほんとうにありがたく、気持ちのいい仕事です。

 

それから、こうしていろいろと綴ったのは米農家が増えてくれたらいいなと思ったからですが、直接誰かに届かなくても、これを読んだ人がすこしでも、米農家という仕事はいいものだ、少なくとも悪いものでもないと思ってもらえたら。きっとその人のまわりで、誰かが農業に気持ちを向けたときに、いいんじゃないかなとポジティブな反応をしてくれたらいいなとも思ったのです。わたし自身は農家になるときにそれほどのハードルはありませんでしたが、新卒で入った会社を辞めてアジア学院でボランティアをするといったとき、必ずしも応援の気持ちだけをもらえたわけではありませんでした。覚悟はしても誰だって先の見えない不安があるときに、誰かに背中を押してもらえたり理解をしてもらえたり、そういうことってほんとうに支えになると思うのです。だからこそ、米農家ってなんかよさそうだよねっていう気持ちがこの社会に少しでも増えたらうれしいです。

以前、宮崎駿監督が引退会見で「子どもたちに、この世は生きるに値するんだということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹である」といった話をされていたと見たことがあります。それならわたしは、田んぼは耕すに値するんだということを、ささやかながら伝えられたらなと思ったのでした。

2025年のふりかえり|穀物栽培について

2025年のふりかえり|穀物栽培について

2025年12月18日

2025年もあっという間!(ですよね?)今年も栽培のこと、技術的なことをふりかえってみます。昨年同様、農業に関わっていない人でも読めるように意識はしましたが、基本的には自分のメモとして書いています。

 

|水稲

今年はいつものササニシキ、亀の尾、こがねもちに加えて、鳥取在来種の福山をすこしだけ育てていました。それぞれに課題や発見がありますが、総論としては昨年の豊作に比べたらむずかしい一年だったなという感想です。以前も読み物に書きましたが、まず春の苗づくりを失敗しました。それで植えられる田んぼが減ってしまい、それがまず総量の減少に深く関わっています。

まずササニシキ、こちらは苗が足りずに田んぼが1枚減りました。反収でいえば昨年ほどではないにせよ、これまでのなかでは2番目の良さでした。減ってしまったのは半分の田んぼで草の対応に失敗してしまったからでした。わたしが聞くところによると、自然栽培(無肥料?)あるあるとして生えてくる草が変化します。一年草のヒエやコナギは徐々に姿を見せなくなり、多年草のオモダカやクログワイが元気になってきます。わたし個人の体験としても、はじめの数年はやはりヒエが目立ち、稲はそこそこなのにヒエが多すぎて全面が倒伏する田んぼもありました。そこから深水管理も上手になったこともあるのか、ヒエはほとんど見ないし気にならないようになりました。コナギが気になる田んぼもありますが、いまはやはりオモダカが中心で、ちょこちょことクログワイが見えてきました。先輩農家さんたちから聞いてきたこと変化が目の前で起きていて、おお!自分もついにオモダカに悩むようになってきたのね、、とちょっと感慨深いです。

と、そんなオモダカの対応に今年はがっつり失敗をしています。多めの代掻きで早めに出てくる草を埋め込んだり、定番の深水管理をしながら除草機をかけたり、それから勢いそこそこの田んぼでは気合いの手除草でいい感じですが、勢いのすごい田んぼではびっしりと生やしてしまいました。7月があと2週間ほど増えてくれたらできそうですがとても現実的ではありません。ここ数年続けてきたやり方ですが、このままではいけないなぁとしみじみ理解してきました。次を真剣に考えていかないといけません。

 

それから亀の尾。1年目の冬に種を譲っていただき、2年目は種を増やし、3年目から本格栽培という付き合いですが、今年はこの5年間で一番の少なさでした。苗が足りずに田んぼの半分ほどしか植えられていないことが大きな要因ですが、来年は田んぼを替えてみようと思っています。思い入れがあるからと家からすぐの田んぼで育てはじめて、それからも作付や効率性の関係で近くの田んぼをあててきました。毎年ちょっとずつの改善を試みていますが、どうも元気いっぱいには育てられていない気がしています。それでふと、2年目に種を増やしたとき家からすこしだけ離れた田んぼの一角に植えていたのですが、そこでの姿がとても立派で好きになったのを思い出しました。家近くの砂地田んぼとはちがい、そこは真っ黒な土。そこで育てたらどうなるんだろうと、今更ながらにふと思ったのでした。もうすこしいろいろ考えたいのですが、来年はそちらでとも考えています。

 

そしてこがねもち。育苗に失敗したというかほぼ全滅してしまい、蒔き直しをしなかったら収穫ゼロでした。田植えがちょっと遅かったような気もしますが、とにかく収穫ができてほんとうによかった。。お餅シーズンに入っている今、しみじみと喜びを感じています。いまの禾は、もち米よりもうるち米のほうが圧倒的に足りていないので、こがねもちをどんどん増やそうとは思っていません。平年量を毎年しっかりとれるように安定させていきたいなと思っています。

 

最後は鳥取在来種の福山。こちらは藤原みそこうじ店さんとの「はじまりの味噌」のために育てたお米です。かなりギリギリ、というか9月の長雨がなかったら危なかったかもというほどの晩稲ですが、実りはたわわにありました。2026年の夏に仕込んでもらい、2027年の夏に食べられるお味噌になる予定です。楽しみですね。

 

それから全体でいえば、収穫で田んぼを大いに荒らしてしまいました。ここまではやっぱり初めてで大きな反省です。中干しをきびしくしたり、ゆるくしたり、溝切りをしたりやめたり、夏の水管理を毎年の雰囲気と前年の反省で微調整をしていますが、いやはやです。。秋起こしはもちろんできなかったし来年の春がもう心配です。

あとは話が前後するけれど、苗づくり。稲作でする大きな失敗のほとんどはここにあります。ミスのないようにと毎年気を付けてはいますが、どうしても新しい穴には落ちてしまいます。それで来年からは、失敗してもすぐにやり直しができるように、いろいろな余剰を持っておこうと思っています。春はとても忙しいこともあり、すべてがギリギリ足りるほどしか用意をしないのですが、ここに改善の余地があるなぁと思ったのです。正確には、思ってはいたけれど踏ん切りがつかないままだったのですが、さすがにちょっとここはどうにかしないといけないと痛感したのでした。

 

 

|大豆

今年も昨年同様、サチユタカと日の丸大豆の2品種です。まだ乾燥選別をお願いしているところなので実際の収穫量はわかっていません。ひとまず現時点での感想としてはですが、栽培段階でも収穫量でもサチユタカはうまくいかず日の丸大豆はとてもよかったというのが総論です。

まず、サチユタカ。昨年の大豊作をイメージしつつ、今年の挑戦は連作と麦との立毛間栽培の2つでした。ただ、春先からやや失敗のスタートでした。ロータリーがけはとにかく浅めが基本なのですが、それが弱くて春草がずっと残ってしまいました。日に日に大きくなっていき、徐々に深くしてももう埋め込めない…。例年の倍くらい数はかけたけど、草が残ったままの播種となりました。数年前にも田んぼで似たような失敗をしていたのに、なかなか懲りません。

それから発芽率の悪さ。これは要因がよくわからないままなのですが、半分も芽が出ませんでした(残らなかった?)。何箇所も土を掘ってみて、鳥や獣に食べられる、機械が詰まっていたのか蒔けていない筋があった、などは確認しましたが、これほど芽がそろわないのは初めてでした。結局やり直しで、2枚のうち1枚は2回播種、もう1枚は3回播種をしました。ロータリーがけの数が多かったので土が細かく乾きすぎたのかもしれないと、雨の直後を狙ってみましたが、すこしはマシになったかな程度で劇的な改善はありませんでした。種子の予備がなかったので、正規品ではなくB品をつかっていてそれも影響しているかもしれません。

生育期間中も、そもそも大豆がいないので草も多くなってしまい、収穫直前の晩秋はひたすら草刈り・草取りでした。ここでかける何十時間の、その数分の一でいいから夏にやっていればそれで終わっていたのにな、と毎年思います。季節に寄り添うといえば聞こえはいいですが、遅れないようにするだけで精一杯、というか遅れまくっているのです。

それから収穫についても。なかなかすべてが熟れず落葉しない株も多々ありました。そもそも蒔き直しの連続で予定よりもかなり遅れていたので心配はしていましたが、2枚のうち3回播種をしたほう(より遅かった)がまだよかったのです。播種が遅いと成長が進まず実がつかず熟れない落葉しない、というイメージがありましたが、今年を見る限りでは、ある程度遅いとダメだけど、かなり遅いと株も小さいから熟れるには熟れる、なのかなぁと。わからないことだらけです。

 

日の丸大豆。こちらは栽培と収穫のどちらもよかったです。前述のとおり今年は稲の苗が足りませんでした。それで当初は大豆畑の一角で日の丸大豆を育てるつもりでしたが、1枚まるまるをそのまま当てることにしました。

サチユタカ圃場のようにサラサラな畑っぽくなった土とは違って、前年が田んぼで排水対策も特別にはしておらず土もゴロゴロ。サチユタカで芽が出ない問題も既に出ていたので、日の丸大豆もあまりいいことにならないかなと心配でしたが、きれいにビシッと芽がそろいました。それからの草の生育も勢いがなく、週に一回畑をぐるっと歩きながら手で草をちょこちょこととっていくだけで問題なく、草が全くないなかでの土寄せを初めてしました。

それから昨年は地生えになっていたのが、今年は播種時期を遅らせることでそれほど伸びることもなく、倒伏もほぼないままで秋を迎えました。こちらは昨冬、他の地域で日の丸大豆を育てている方に電話でお話を伺って気がついたことで、ほんとうにいいアドバイスを頂いたなぁと思っています。機械の収穫ももちろんできるし、サチユタカと比べても鞘付きが株の上のほうなので歩留まりもよかったです。

ただ最後の難点はやはり選別作業です。おそらく今年も、平べったいその形状から機械での選別がほとんどできないのだと思います。昨年は友人にもお手伝いいただいてのひたすら手作業、のべ100時間ほどかけて製品に仕上げています。今年は倍以上の量がありそうなので、200時間、、?と思うとなかなかです。ここがもう少し良い形になれば日の丸大豆を中心にしていきたいのですが、鞍掛大豆のいい選別方法なにかないかなぁ。。

という感じで、まだまだ課題の多い大豆栽培ですが、やっぱり稲と大豆のローテーションをするかなぁと悩んでいます。大豆の難易度が一気に下がるからです。ただ田んぼは田んぼ、畑は畑、としていきたいという大前提があったので、うーん、、どうするかなぁ。。冬のあいだにじっくり向き合います。

 

|麦

大豆のあいだに麦を播種をする、立毛間栽培をするんだと意気込んでいましたが何もできませんでした。大豆の草が多くなってしまったことと、大豆と稲のローテーションを考えはじめたのでやめておきました。こうなると、麦は麦でずっと連作をする案もありますが、それをできる圃場がないし、もし圃場が増えたとしてもいまはやはり稲や大豆を育てるべきでは、と感じてしまっています。麦は風景としてもすごく好きなのでどうにか育てたいのですが、どうしたものか、いまは見通しも立っていません。

 

|小豆

と、ここまで昨年に比べればさみしいばかりの結果でしたが、小豆だけはとてもよかったです!育てたものは2品種で、大納言小豆とヤブツルアズキ。

大納言小豆は家庭菜園をほぼ諦めている我が家には珍しい自宅用で、2年前に初めて育てました。記録によるとそのときは100gほどの収穫だったのが、今年はなんと2.7kg。集落の方にもお裾分けをしつつ、冬のあんこもちが楽しみです。それから藤原みそこうじ店さんに頼まれてはじめたヤブツルアズキ、こちらも過去最高の3.8kgの収穫でした。

まず、栽培がとてもうまくいきました。例年の失敗は草負けです。そもそもヤブツルアズキは地生え気味で除草もしにく、気がつけば手を入れるのも大変になっていて、そのまま諦めて秋を迎える、です。今年は徒長しないよう播種時期を遅らせて、かつ簡単な除草作業をとにかくこまめに行いました。草が見えないうちからレーキで地表をガリガリ削っていくだけ。そもそも生やさない、そしてそのまま株が大きくなっていき手をかけなくてよくなる、という理想的なシーズンでした。この良いイメージをもって来年も臨みたいです。(うれしかったので、写真もヤブツルアズキのものです)

ただ、収穫はまだまだ課題です。どちらも数kgと言いつつ、すべてが手作業なのでなかなか大変です。例えばヤブツルアズキは熟れるタイミングが鞘によってかなり異なっていて、しかも熟れるとすぐに弾けて落ちてしまいます。それで10月初旬から一ヶ月、ほぼ毎週のように鞘ひとつひとつを収穫して乾燥選別をしていきました。歩留まりはよかったものの、のべ5日間ほどかかっていて、もう少し効率的な方法を見つけないとこれ以上は難しそうです。こちらも要検討ですね。

 

こうして文字にするにあたって、昨年と今年の日誌を読み返しました(就農以来ずっと綴っているのです)。すると、ぼんやりと抱いていた総括が実態とは違っていたり、忘れていた当時の反省を思い返したり、なんだかこの営み自体がわたしにとって大切な時間だなと思うようになりました。

先日、友人と夜な夜な電話をしていたときに、書くことがすこし話題になりました。どうして書いているのか、自分にとってはどこまでいっても自分のためなのです。それは、ぼんやりと頭に漂っている考えをひとつひとつ文字にすることで、書いてみたけどそれってほんとう?と自分に再度問いかけたり、ここはなにか大切な気がするからもっと先があるんじゃないの?と思えたり。頭の中にだと止まっている思考が、文字と自分のふたりになることで進んでいくような感覚があるのです(いまもまさに書きながら考えていますしね)。

今年はどうだった?と聞かれると、昨年の豊作に比べればそうでもなかったですね〜、むずかしいです。みたいについつい答えてしまうのですが、グッと深い学びと経験を得ているんだなと思ってきました。来年にはまた来年の土と種がありますが、冬を超えてまた来年の自分になって、春からまた精一杯やっていきたいです。

食べるものへの配慮

食べるものへの配慮

2025年11月10日

10月半ばに鶏の一部を廃鶏にしました。昨年の春から飼い始め1年間たまごを産んでくれた鶏たちです。

禾としては実に3年ぶり2回目の廃鶏。処理していただいたのは前回と同じ岡山市の三島食鶏さんです。この時ばかりはちょっとかわいそうなのですが、鶏を入れる専用のカゴに7羽ずつくらい入れて、軽トラに3段積み、高速道路を使って2時間の道のりです。もう少し近くで、または自分たちで捌けたらという思いはありつつ、販売するためには免許を取得した施設でないといけないため現状自分たちではできないし、このような仕事をする会社さんはもうそんなに多くはありませんし、ひとまず県内で良かった、今回も引き受けてくださってありがたいという思いです。朝から夫と一緒に必死にカゴに詰める作業を。3年前は妊婦だったのでほぼ夫が一人で詰めて運んでくれました。今回は身軽なのがこれ幸いで私もしっかり捕まえて、私が岡山市まで運んで屠殺していただきました。空っぽになったカゴを持ち帰り、がらんとした鶏舎を見てふうと一息。命をいただいて生きているという実感をする瞬間です。

そうして、パック詰めされたお肉が我が家に帰ってきました。早速、家族でいただこうと思って食卓に出すと、なんと6歳息子が「たべたくないな〜」と。いつまでもぐずぐずしていたので、はよ食べんさい!と食事を促しても鶏肉には手を出さずにごちそうさましてしまいました。

そんなことが何度か続いたので、よくよく話を聞いてみると、うちの鶏のお肉は食べたくない、他の鶏肉やうちのたまごは大丈夫と思っていることがわかりました。少し目をうるうるさせながらそんなことを話してくれて、彼なりに寂しさと悲しさを感じていること、食べられるものと食べられないものの線引きを考えていること、そんなことがわかってきました。彼としては、たまごは生きていないから食べられる、生きている鶏を殺して食べるのは嫌、それが直接には見えない他の養鶏場の鶏は食べられる、ということなのかなと思います。廃鶏やお肉にして食べることを伝えてても、それまでは特に反応がなくて、今日鶏連れて行ってきたよと言った後には、鶏舎を見に行って少なくなったね!くらいのコメントしかありませんでした。いざ食べるとなった時に、きっときっと彼なりに何度も考えたのでしょう。わたしたち夫婦がそんなことに向き合うようになったのは、彼よりずっと大人になってからです。よく言えばこれがまさに食育です。しかし、本人の意思とは関係なく農家の子として生まれて、幼い頃から命を食べることに向き合う彼の気持ちは一体どれくらい重いものを背負っているのだろう、と少し申し訳なく思いました。

食卓が生産現場から離れているという現代の食事事情を私は悪いことではないとも思っています。男木島・ダモンテ商会さんの「広いキッチン 長いレシピ」という本の中で、二宮将吾さんが、鶏の屠殺から焼き鳥にして食べるまでの過程を体験したのちに「料理とは、食材のポジションに関する情報をデザインするための人間の技術体系」(p.57)であると指摘しています。調理方法によってその生き物の「存在感」を見せたり隠したりしていて、「食べる者への配慮が料理の技術を発達させる」(p.57)と語っていました。これはすごい発見だなと私も思っていて、読んでからずっとその通りだなと感じています。例えば、私自身たまごを食べるときに、ゆで卵は命を感じすぎて食べにくく、スクランブルエッグにしてしまった方がいいと思う時があります。私はたまごを孵化させた経験があるため、スクランブルエッグの方が鶏やひよこの存在感を感じにくくなるからです。

今よりずっと生産現場が近かった頃は、そのような料理の発明が人々の精神を支えてきたこと、生きることへの罪悪感を薄めてきたことがあるのではないかと感じています。食卓と生産が遠いことは何かと問題視されがちですし、私もできるだけ生産の場で起きていること感じていることを伝えたいとは思っています。ただ一方で、その距離感の居心地の良さは人ぞれぞれであり、それぞれ異なった配慮が必要であると息子の想いを知ってより一層感じました。