清らかな水がある蒜山の
四季折々の美しさ

静かに見つめ 耳をかたむけ
この世界にある
豊かな自然と生きる命にとって
心地よいものをつくる

そうしてできる穀物と卵は
きっとやさしい味がする

ここに穏やかでまっすぐな
二人が描く世界がある

心地よいものを

「冬には子どもと一緒に雪遊びができるし、自然豊かなこの地域で過ごす毎日が好きで、この環境のおかげでおいしいものを作ることができます」
岡山県の最北部。北の山陰と南の山陽を分ける蒜山の麓にある真庭市旧中和村。ここで、自然栽培で穀物を作っている近藤亮一さんと、資源を循環させる飼料で養鶏をしている妻の温子さんは暮らしている。
「ここは標高500mの高原地帯で、昼夜の寒暖差が大きく、冷涼な気候です。冬は雪深く、目に見える世界が真っ白に染まる。その澄みきった空気が大地をゆっくりと潤し、豊かな雪解け水が春からの稲作を迎えてくれ、鶏たちはその水を飲みながら育ちます」
その自然のありがたさを感じている二人は、自分たちのことを優先し、何かを犠牲にしたり、消費したりするようなやり方は選ばない。それは今の時代において、とても非効率なことかもしれない。
「私たちにとって大切なのは、心地よさ。まわりに住む生物や自然、そして私たち自身。そのすべてに心地よいやり方で作ったものを『美味しい』と思いたい。穀物でも、土の排水性、風の吹き方、日光の当たり方、水のよさ…。田畑の外を含めたこのあたりの景色を作っているすべてがつながっていると思っています」
農家として自分たちの奥底にある想いをまっすぐに伝えるその目には、柔らかさとしなやかな強さが宿っている。

優しく生きる

世界は、目に映る光景だけではない。見えないところにも、人々は暮らし、生物や植物は呼吸し、自然は生きている。二人にとって見えない世界を想像するきっかけは、学生時代の経験にある。
東南アジアの暮らしに触れた大学時代に国際協力、そして農業に関心を持った温子さんは農村指導者を育てる学校法人「アジア学院」の研修に参加。一旦は生協で働いたものの「都会で働いてたのですが、もう少し違う生き方、田畑にいる暮らしがしたいと思うようになりました」と退職して入学を決意。亮一さんも学生時代にベトナムでボランティア活動を経験したことから国際協力への思いを強めた。ITの会社を辞めてアジア学院にボランティアとして働くようになり、そこで二人は出会うことになる。
「アジア学院では、毎年アジアやアフリカから学生、欧米からもボランティアを招き、共同生活をしながら有機農業やパーマカルチャーを学びました。さまざまな国籍を持つ人たちと触れ合う中で、自分がわかる、できる範囲でいいから、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりしない仕事と暮らしがしたいと思うようになりました」
学校のモットーでもある「共に生きる」。その言葉のように、見えない世界にも優しい生き方ができないだろうか。想いは、日に日に募っていった。

農を通して届ける

自分たちの価値観がぼんやりと定まってゆくなかで、ひときわ亮一さんが惹かれたのは農場で働く人々の姿だった。
「自分たちが生きるために食べ物を作るってすごく尊い仕事だと思いました。時に厳しくもあるけれど、田畑や自然は歪みがなくまっすぐで美しい。そこから農を中心とした暮らしをしていきたいと思うようになりました」
温子さんもまた農に強く惹かれていき、学校法人を離れて二人は広島県へ。そこで2年間、一緒にNPO法人の立ち上げに関わりながら農的な暮らしを経験。そこでは、無農薬・無施肥・不耕起手作業・自給自足の生活をしていたが、理想を追い求める一方、現実的な問題にもぶつかった。
「広島での日々もいい時間ではあったんですが、生活費をギリギリでやりくりしながらで…。自給自足で良いと思うものを作るのはいいけど、それを自分たちが食べるだけで良いのだろうかと思いました。もっと農業に深く関わりながら生活としても続けていけ、思っていることを誰かに届けられるような農家になりたいと思うようになりました」
そんな頃、旧中和村で自然栽培をしている農家さんに出会い、一年間研修させてもらうことに。自分たちのやりたいことを実現する場所を決めかねていたが、そのご縁が二人を中和に引き寄せることになる。

地に足つけて

「良いものを作って、食べてほしいと願う一方で、自分たちの暮らしが犠牲にならないようにしたいと思っています。自分たちが豊かだと思える暮らしがあるからこそ、良いものを作ることができる。だから、私たちは、子どもとの時間も大切にしたいし、休みもきちんと取るようにしています」
理想だけを語るでもなく、自分たちが食べていくための現実だけを見るわけでもなく。自分たちがちゃんとこの地に足をつけて生き、農を通して想いを届けている。「この頃は、少しずつ想いを同じくする仲間とつながり、自分たちが作った作物を使って、味噌やお餅、煎餅など加工品も増えてきたんです」と嬉しそうな二人。
時には自然の厳しさも、生き物と対峙する難しさも感じることもあるが、それはこの世界に生きているという実感でもある。流れゆく中和での日々は、とても心地よい。
禾の名前は、一年を小さな季節にわけた七十二候の一つ「禾乃登(こくものみのる)」からつけた。 田の稲穂に米粒がたわわに実り穂を垂らすころ、秋の農村が黄金色に染まる情景が浮かぶ美しい言葉だ。少しずつ、少しずつ。二人が耕そうとしている景色は、これから美しく輝きを増してゆく。

Text & Photograph / Kazutoshi Fujita(僕ら、)

江戸時代の水田は色彩豊かであったということ

江戸時代の水田は色彩豊かであったということ

2024年12月28日

|書籍

書名:耕稼春秋(日本農業書全集4巻)
著者:土屋又三郎
発行:農山漁村文化協会

 

|書籍紹介

耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)は江戸時代の1707年に、加賀藩(石川県)の土屋又三郎が農民たちに向けて書いたものです。この日本農書全集第4巻は耕稼春秋の全7巻とその解題が掲載されていて、すべて現代語訳で読むことができます。

当時の北陸はこうした農書の多い地方として知られていました。それは全国的にみれば農業の先進地に及ばない中間地として、新しい技術段階に入った者と古い技術段階にとどまる者との格差が大きかったことを意味しているそうです。

加賀藩では武士が農村を支配するのではなく、百姓の有力者に村々の管理を委ねていました。その役職を十村(とそん)といいます。祖父の代から十村を勤める家に生まれた又三郎もまた、おもに農業の生産指導を担っていました。そうして30年がたった1694年、詳細な記録のない事件ののちに、又三郎は十村を解任、平百姓に格下げ、ほどなくして髪を剃って隠居しその23年後に死去しました。

又三郎は十村を勤めているあいだから農事研究の意欲を持っていて、精農や古老から教わったり自らも実践を繰り返したりしていました。そんな彼が時間的余裕のある剃髪生活のなかで書き上げた、後世に名を残す農書のひとつがこの耕稼春秋です。

全7巻からなる本書は、1697年に公刊された大著『農業全書』に大きく影響されていて、栽培法や農事暦からはじまり、田の面積の計算方法から税計算といった行政知識まで、幅広く取り扱われています。これは農民の知識や技術を向上させたい藩の方針のもとで、各地域の十村や上農を中核農家として指導力を発揮させるよう再教育することが目的だったと言われています。

 

|なぜ手に取ったか

数年前、たまたま目があった一冊の本を地元の図書館で手にとりました。『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか(武井弘一/NHK出版)』という本です。戦国の世があけてから概ね平穏とよべる江戸時代になり循環型のエコな社会を築いた、という一般のイメージに対し、実態は持続可能性のほころびのようなものがそのときすでに深層には流れていたのではないか、そんな提言が書かれた一冊でした。

そのなかで、個人的にわたしが一番驚いたのは第一章「米の多様性」という12ページです。端的にいえば、「かつての田んぼは色とりどりであった」ことが書かれていました。そして、その重要な参考文献のひとつがこの耕稼春秋でした。なにかを学ぶならできるだけ原著にあたりたいと思っていて、最近ようやく手にすることができました。

 

耕稼春秋には宝永年間(1704-1711)ごろの石川郡における米の品種が記されています。収穫時期の違いからくる早稲、中稲、晩稲の3分類があり、その数は合計で82品種ありました。そしてこれは原著を読めていないのですが、耕稼春秋が著されてから30年ほど経ったころに『郡方産物帳』という書物を加賀藩がまとめています。そこには、品種名 / 芒(のげ)という穂先の毛の有無 / 籾の色 / 芒の色 / 味 / 収穫期間といった6項目が記されています。記載された112品種のうち、55品種の籾の色は白 / 薄白 / 黄白といった今でも一般に目にしているもので、残りの57品種は赤 / 薄赤 / 赤黒 / 黒 / 薄黒といったものでした。そして半数以上のお米には芒があり、その色もまたさまざまだったようです。

また『江戸時代中期における諸藩の農作物 - 享保・元文 諸国産物帳から -』は圧巻の史料でした。簡単に紹介すると、享保20年(1735年)から元文3-4年(1738-1739年)にかけて、全国の大名領などでそれぞれの産物を調べた「産物帳」が編纂されたそうです。それらの中で保存がされていた一部(編者曰くおおよそ1/3)に記載のあった農作物の名前がひたすら書かれている書物です。稲に限らず野菜も果樹もあり、ただただ驚きの一冊でした。そこでは白 / 赤 / 黒のほかにも青の名がつく品種もほぼ全国的に確認できます。「青稲」、「青からぶんこ」、「青タチカルコ」などですが、緑という意味の青だったのかな、緑糯という古いお米は見たことがあるし、と勝手に想像しています。

それから、江戸時代よりも以前はどうだったのか。もしかしたら間違った理解かもしれないけれど、『森と田んぼの危機』によればもっと品種のバラつきは大きかったようです。具体的には、奈良・平城宮跡遺跡から出土した炭化米の標準偏差ばらつきはコシヒカリの5倍でした。そしてその5倍という数字は、明治時代にあった100の品種をランダムに取り出し炭化させたものと同程度だそうです。つまりそのエリアだけで100品種ほどあった、というわけではきっとないのだろうけど、それに近いという理解をしていいのかなと思いました。

 

水田を埋める稲穂の色は、一色ではなかった。「瑞穂の国」では、白い米だけでなく、赤や黒などもふくめた、バラエティに富んだ米が育てられていた。それが、開発期に広がった田園風景の現実の姿だったのだ。

『江戸日本の転換点』

 

|どう思ったか

「はじまりの味噌」というお味噌を、友人の藤原みそこうじ店さんと一緒につくっています。わたしたち禾の自然栽培のお米と大豆をつかって、藤原さん(わくさん)が野生麹菌と沖縄の海水塩で夏に仕込む玄米味噌です。

ここには2つの観点があって、1つは自然栽培と野生麹菌のつながり。野山にただよってきた菌たちがより馴染み好むのは、肥料や農薬といった現代技術で育ったものではなく、その土地の力だけで育ったもののように感じるということ。もう1つは在来種と野生麹菌のつながり。これも同じ理由で、菌がどういったものを好むかといえば、より長くその土地に馴染んでいったもののようだということ。それが、わくさんが日々の菌とのかかわりで感じていたことでした。そしてその菌の好みは人が食べておいしいかどうかとは関係がないようだ、とも。

わたしは米農家としてこれまで10品種以上の稲を育ててきました。その多くが在来種とよばれる明治時代ごろの品種です。正直にいえば、食べておいしいと思えるものは多くありませんでした。素朴であると表現することができるかもしれませんが、粒は小さく、味はあっさりというよりたんぱくです。米農家が育てる品種を選ぶときの基準は主に2つで、おいしいか?そしてたくさんとれるか?ですが、わくさんの話を聞いて思ったのは、そこに第3の基準があるのではないかということです。つまり菌が好み、おいしいお味噌に醸してくれるかどうかです。

規模の割合でいえば、日本の田んぼから在来種は消えたといって差し支えないといった記述をどこかの本で読んだことがあります。それがまた、もしわたしたちの試みが本当なら、昔はよかったという懐古主義ではなく、今わたしたちが食べても新しくおいしいものとして見出される稲があるかもしれない。そんな考えに至って以来、小さな米農家ではありますが、ささやかな使命感のようなものを抱いています。

 

そしてそんな在来種の中には、穂先の毛である芒のあるものもたびたびありました。黄金色に染まる秋の田んぼの一隅にそうした在来種の白や黒がよく映える、そんな不思議で美しい風景を初めて見たときのことを今でもよく覚えています。米をつくるために育てている稲の、そのものの立ち姿をただずっと見ていたいとすら思いました。それから自分のなかで、「はじまりの味噌」は目的のようでありながら同時に、在来種を育てつづけていく手段であるかのような感覚があります。

ちょうど時を同じくして前述の本に出会いました。色彩豊かな田んぼをほんのわずかでも想像できた自分がそこで思ったのは、それを見てみたかったということでした。かつての田んぼは今のような機械農業に適した四角ばかりではなく、もっとさまざまな形をしていました。よりそれぞれの地形に沿ったものだといってよいと思います。そこで育てる稲には早稲から晩稲までがあり、籾も芒の色もさまざまで、畔には大豆や稗を植えていた。今よりも田はもっと身近で、そしてある種の強い覚悟をもって向き合っていたであろう色彩豊かな田んぼとその美しさを、わたしは見てみたかったのです。

もちろんいまの黄金色の農村風景も美しく満ち満ちています。一米農家としてそれを実現するための努力や苦労もすこしはわかってきたような気がしています。ただ、それがわたしたちの原風景になったのは明治の中期ごろからでした。それ以前に生きた人たちは、もっと多様で色があふれた風景のなかで暮らしていたのです。そんな農民たちにとっての当たり前や価値観は、それだけでも今とはきっとまたぜんぜん違ったものだったのではと想像します。決して楽ではない農の暮らしにあった豊かさと楽しさの深みを、自分はいつか味わえるんだろうかと思います。

 

農民というものは、朝に霧を払って田に出かけ、夕に星空を見つつ帰路につくものである。また、遠方にゆき、あるいは野山で働いていて、少し休もうとするとき枕にするのは、あぜである。そのような暮らしのなかにこそ楽しみがある。

『耕稼春秋』

 

色彩豊かな田んぼとはどういうものなのか、品種とは何なのか、現代にも通じる農民の心はあるんだろうか。それにここでは省略しましたが、農民と権力者といった比較の意味でも興味深い記述がありました。わたしたちが失ったものを知ることは無意味ではないと強く思いました。もっともっと知りたい読みたいと思えることが増えた奥深い一冊です。

 

|参考書籍

耕稼春秋(農山漁村文化協会)
江戸日本の転換点(NHK出版)
稲学大成 第3巻 遺伝編(農山漁村文化協会)
江戸時代中期における諸藩の農作物(安田健)
森と田んぼの危機(朝日新聞出版)

2024年のふり返り|穀物栽培について

2024年のふり返り|穀物栽培について

2024年12月26日

2024年もあと数日、今年はどんな一年だったかなぁとふり返ってみます。内容は主に栽培のこと、技術的なことです。農業に関わっていない方でも読めるようには意識しましたが、基本的には自分のメモとして書きました。

 

|水稲

今年はササニシキ、亀の尾、こがねもちという安定の3品種。結果だけ見れば過去最高の反収で、総量も今までにないほどでした。この結果についていろいろ思うことはありますが、大きく2つの要因があるのかなと感じています。

まず、苗をちゃんとたくさん植えたということです。この6年間すべての田んぼで欠株がなくなったこと自体が初めてだし、今までより植える間隔を狭くしたのです。たくさん植えるとたくさん実る、というシンプルで力強い方程式にただただ驚きました。えっ、そこから?と思われるかもしれませんが、そんなこともままならないのが新規就農者、というと他のすごい方に失礼かもしれないので、わたしだったのです。そうした基本的なことすら、できるようになるのに何年もかかります。

苗代のこと、秋起こしや春起こし、代かき、溝掘りなどなど、あれもこれも精一杯やるけれど、とにかくちゃんと植えることをもっと意識しようと思いました。そのためにはいい苗をつくるのはもちろん、もう純粋にいろいろな人に助けてもらうのも今の自分には大切です。来年もどうぞよろしくお願いします、ともうお願いしてしまいます。それと今年はデモ機として新型の田植え機にすこし乗せてもらいました。苗が転ぶことなくさくさく植えられてびっくりしました。技術不足を機械のせいにしてはいけないけれど、機械をちゃんとするのも大切だなと痛感しました。これはまたお金のかかることなので、いつかきっとと思っています。

それから、もうひとつの要因は安定した品種しか育てていなかったということです。「はじまりの味噌」のためにお試しで育てる在来種は不安定なことが多いのですが、それも少量しかない年だったので田んぼの隅っこに植えただけです。もち米も収穫量がまだぜんぜんとれない太郎兵衛糯をやめて、こがねもちだけにしました。ここまでの豊作は予想もできませんでしたが、はじめから冒険やリスクの少ない年ではありました。

 

|大豆

今年は2品種を育てました。いつものサチユタカと、岡山在来の日の丸大豆をすこしだけ。作付面積を減らしたので総量は多くありませんが、反収でいえばとてもよかったと思います。思います、というのはまだ選別を経ていないので実際はわからないのです。ひとまずサチユタカに関しては、畑での手応えはあったし収穫後の持ち込み重量も多かった、そこまではわかっています。ただ選別をしたら製品にならないような品質のものばかり!という可能性もあるので、それが心配です。年明けにはわかると思うので、もうすこしですね。

よい結果になった理由はシンプルでいい圃場を選んだからです。なので正直なところ、こう言うと偉そうなのですが、やる前からある程度は想像できていた結果です。逆にいうと、ここ数年のわたしの場合はいい圃場を選べなかったことがこれまでずっと続いてきた不作の根本原因だったと考えています。

わたしが住んでいる蒜山中和村では畑はあまり無くて、ほとんどが田んぼです。水を溜めるための土になっている田んぼで、なかば強引に排水性が大切になる大豆や麦を育てています。そもそも自分の都合でちょっと無理をしているのです。そしてどれだけいい結果になったとしても、ある面積で期待できる大豆の売上はお米にした場合の1/3ほど。大豆栽培は作業量が少ないのも事実ですが、どうしてもお米を優先にしたほうがよいと考えてしまいます。

そうして、お借りしている農地のなかではとても良いとは感じていないところで大豆を育てることになります。そして、やっぱりいい結果にならないことがたびたび起きています。こんなことを何年もやってみて、これはもう構造的な課題なんだと思い至りました。そしてそれを変えない限り、単年で見ればいいときもあるけど同じことを繰り返す可能性のほうが高いんだと。

そうして迎えた昨年の冬、家の近くで条件のよい田んぼをお借りできることになり、悩んだ末にそこでは大豆を育てようと決めました。日当たりもよく排水性もよく獣の被害もほとんど聞かない、そんな圃場です。よほどのことがない限り、今年はきっと大丈夫だろうと思って春を迎えていました。大豆の管理としては、正直なところぜんぜんうまくいきませんでした。タイミングがあわず、いつもできている最低限の作業さえできませんでした。技術的には反省ばかりの一年でしたが、そんなわたしのミスもなんのそので育ってくれた、そんな圃場を選べたことが今年の豊作の一番の理由だと思っています。

 

それから日の丸大豆について。2年目の栽培でしたが、これまた難しいのか実は楽なのかよくわかりませんでした。播種してからぐんぐん伸びていき、夏ごろから地生えのようになります。周りの草もほとんどを覆い隠して消してしまう強さがあります。一方で収穫が大変です。汎用コンバインは難しそうだなと思っていたので、草刈り機で刈り倒し、ビーンスレッシャーで脱穀という流れです。汎用コンバインなら恐らく1時間もかからない面積を、そうした手作業だとまる2日間ほど。大変だけどやれないこともない微妙なところです。さらには粒の形が平べったい丸なので、委託先では機械選別ができないこともわかりました。冬のあいだせっせと手選別です。こうして書きながら考えていると、やっぱりすごく大変ですね。それも無数にある在来大豆のなかでもかなり大変な部類に入るのかなと思います。とにかく機械作業との相性がよくない。日の丸大豆、、すごくきれいなのですが、どうしたものかなぁという所感です。

—–

と、ここまで書くと、いろいろあったけどすごくいい年だったんだね!と思われます。ただ、そんな思ったようにはいかないのが禾の農業です。いきます。

 

|麦

大麦はおやすみしているので古代小麦のみ。昨年の秋に播種して夏に収穫した分と、今年の秋に播種するはずだった分と2つあります。結論からいうと、どちらもひどい結果でした。

まず昨年の秋に播種した分は3枚あった圃場のうち2枚、作付面積の6〜7割の収穫がゼロでした。収穫できた1枚もコンバインの部品を壊してしまい大変は大変でしたが、前年どおりの結果でした。収穫もできなかった2枚はもっと大変で、端的にいえば小麦は生育不良だし草が繁茂していてコンバインで入ることも諦めました。

それも大豆が良い結果だったのと同じように、昨年播種をする前からある程度の結果はわかっていたようにも思います。ここ数年の小麦播種までの流れは、6月に緑肥セスバニア播種、8月にモアで粉砕、ロータリーですき込み、整地、10月に播種が基本でした。ただ8月にモアで粉砕せずロータリーですき込んだらどうなるんだろう?という疑問が湧いてしまったのです。調べてみると、そうやって管理されている方がそれなりにいらっしゃいます。モアは自分のものではなくいつもお借りしていたものなので、自前の機械だけでできるならその方がいいよねという考えもあり、まぁやってみるかとなったのです。

セスバニアは背丈ほどに大きく硬く育つ緑肥です。そこでいきなりロータリーをかけてもまぁなかなかすき込めませんでした。いつもならモアのあとは2回しかかけないロータリーを、どれだけやったら播種できる圃場になるのかな、、と繰り返し4回ほどかけることになりました。結果的に土が細かくなり過ぎてしまい大雨にあたってずぶずぶに、うわ〜…と思いながらどうにか播種するも初期生育も芳しくなく。まわりの草がどんどん育ち、秋の土寄せもあまり効果なく(ちょうど管理機も壊れ…)、そのまま雪に埋もれて春に。雪解け後も生育不良はつづき、手当のしようもなくそのまま草が繁茂する圃場になってしまった、という流れです。

今までも何回か試したいつもの流れでやればよかったのです。それである程度はできていたのです。わざわざ違う、リスクのある変なことをする理由はありませんでした。ただ、こうしたらどうなるんだろう?と思いついてしまったし、思いついてしまったら知りたいしやってみたいのです。心の中のジョージを抑えられませんでした。自分も知りたがりやのこざるなのです。。

 

つぎは必ずモアをお借りしようと心に誓ったのですが、この秋は播種すらできませんでした。来年の収穫もゼロと決まっています。以前もどこかで書いた立毛間栽培をやろうと決めていて、それができなかったというお話です。

大豆のあいだに小麦を蒔いて小麦のあいだに大豆を蒔く、管理機での土寄せはたぶんするけど基本は不耕起にする、小さい面積をギュッと丁寧に管理して毎年2つの実りを得る、そんな夢のルーティンを確立したいと昨年のこざるは思いついたのでした。そうして6月に大豆を播種してからがんばって管理しつつ夏をこえて秋になり、落葉する前に手押しの播種機で小麦をという考えでした。でも正直なところ、肝心の落葉時期をいまいちわかっていませんでした。ここだけの話ですが、いつも気がつけばそうなっているのです。

大豆に意識を向けつつも、9月も下旬になりお米収穫の日々がはじまります。天気を見ながらできる日にえいやとやっていくので、いったん始めればもうそれ以外のことは何も考えられません。今年もワーワーしながら収穫も終わり、来年に向けた種採りもして、機械を掃除したり販売の準備をしたり、あれもこれもとドタバタしながら毎日を過ごし、ふぅと思ってふと大豆を見に行くとみんな落葉していたのです。そっかと、お米の収穫時期に落葉しているから、その瞬間を意識して確認したことがなかったのかと。

なるほどね〜!とすごい腹落ちをしつつも、落葉したら播種機を通せるのか問題があります。あちゃ〜と思いながら試してみた結果、落ち葉をどかしてすこし整地すれば播種はできる、落ち葉をどかして整地するのはかなり時間がかかる、落ち葉をどかさないと播種機が詰まるからできない、播種機を諦めて落ち葉の上からパラパラと小麦を蒔いてもほとんど芽は出ない、ということがわかりました。写真は1筋だけ落ち葉をどかして播種したところ、これを全面につくりたかったのに…。とにかく人手をかけさえすればどうにかできたのだろうけど、晴れ日も少なく他にやることもたくさんあって今年は諦めました。

そんなわけで今年の小麦はこの1筋だけです。これだけ育てても仕方ないので春になったらすき込みます。農家1年目から毎年せっせと種を増やしてきた古代小麦も、夏にガクッと収穫量が下がり、種は残してあるとはいえ来年の収穫量はゼロです。自分のやってきた積み重ねとはいえ、とても落ち込んでいます。

とはいえ、この立毛間栽培はまだ諦めていません。昨年はほんとうにただの思いつきで、正直なところどうなるか全くわかっていませんでしたが、いまは多少の知見があります。これはまずい、あれは大変なことになる、という具体的な失敗要因を理解しています。次はどうしたらこれを避けられるかを考えてまたやってみる、すると残念ながらきっと新しい失敗をする。それを何度も繰り返し、修正して、いつかある程度の範囲におさまって納得のいく結果が出る、かもしれない。いつかうまくいくのかすらわからないけど、それをわかるための道もこれしかないのだとわかっています。

先に書いた通り日の丸大豆では絶対にできないこともわかったし、大豆の連作を避けたい気持ちもあったり、いろいろむずかしいのですが、この冬のあいだに大豆と麦にどう向き合えばよいか作付パズルを考えます。

 

|小豆

シンプルにすべてを諦めて何もしませんでした。ここ数年はいつも自家用にと大納言小豆を、わくさんのお味噌にとヤブツルアズキを育てていました。小さな畑とはいえ、年間を通して1週間ほどは時間をかけていたと思います。それくらいの余裕は持っていたいという願いもあって続けていましたが、今年はいろいろ大変だろうとわかっていたのでやる前から諦めていました。なので書くことは何もありませんが、こうした小さなことも削ぎ落としていった上でのいろいろです。

 

—–

誰かに読んでもらう意識もないメモのつもりで書きましたが、よかったことも大いにあるし、よくなかったことも大いにある。そのどれもが、自分のなかのうれしいもかなしいも含めたあらゆる感情の源泉だったし、この身に深々と刻まれた一次体験であった、そんなことを改めて感じました。

それに書いてみたからの発見もあって、それはどれもシンプルなことばかりで結局のところ自分のなかで安定してきた部分と不安定な部分があるんだなということです。いろいろ振り切って幅を広げてみて、どこからどこまでがいい範囲なのか、ちょうどよいのはどのあたりか、そんなことをずっと探っているのだと思います。そしてその根っこには、現状うまくいっていないという焦りが間違いなくあって、どこかはわからないけどとにかくどこかに移動しないといけない!というジタバタとした積み重ねでした。なので、今きっとすこしホッとしています。少なくとも一度は着地できたなという気分です。

とはいえ、来年も同じように見込めるとは思っていません。来年には来年の気候があり、来年の土と種があります。自分も来年の自分になっています。冬のあいだにしっかりと準備をして、春からはまた新しいジタバタをやっていけたらと思っています。

苗代をどうしようかの旅6年分

苗代をどうしようかの旅6年分

2024年07月19日

苗代(なわしろ)は稲の苗を育てるところです。農業には「苗半作」という言葉があって、苗の良し悪しでその年の結果が半分くらいは決まるよという意味です。それくらい大切な苗を育てる苗代をどうするか、まだまだ道半ばもいいところですが、この6年で試みてみたアレコレを整理してみました。

 

前提として私は保温折衷苗代という方法で育苗をしています。もともとは長野県で開発されたもので、寒冷地で冷害を避けるために早く田植えをするための技術です。当時では田んぼに苗床をつくり種をまき、その上に籾殻くん炭をまいてから油紙で覆うというものだったそうです。私の場合はそれを原型として、小さな田んぼに畝を立ててその上に苗箱を置き、ビニールシートや不織布などの保温被覆資材をつかっていました。

 

第一期

2019年-2021年までの3年間(1年目〜3年目)。このときは家のすぐ近くにほどよく小さい田んぼがなくて、研修でお世話になった蒜山耕藝さんの4畝ほどの小さな田んぼをお借りしていました。

・保温資材はやめてみた

いわゆる寒冷地の蒜山では種を蒔いたあとも霜が降りるほどに温度の下がる朝もあります。特に夜の冷え込みから苗を守るために、保温資材をつかうことが基本となっています。私も1年目はいろいろと使ってみました。ただ大変なんですよね…。置くのも大変、片付けるのも大変、ビニールでトンネルにしていれば毎日の開閉はものすごく大変です。それから、自分が大変すぎず苗にもちゃんと意味があるものが何か調べようと思って、2年目には畝ごとに異なる資材をつかって比較してみました。結果的に、資材があれば確かに成長は早そうだけど、田植えの頃には大きな違いはなかったし、稲刈りの頃にはその違いをまったく感じませんでした。自分の比較方法が甘かったり、その年はたまたまそうだった可能性もありますが、保温資材はなくてもいいんじゃないかなと思うようになりました。

・温水田をはじめてみた

同じ流れで、1年目が終わった冬のあいだ、今ほどには保温資材がなかった昔はどうしていたんだろうと疑問に思い、いろいろな本を読んでみました。そこで温水田(おんすいでん)という技術を見つけました。苗代のなかに畔(あぜ)をつくって半分に区切り、入水側で水をためてそこで温まった水を苗がある方に流すという方法です。冷たい川水を直接苗にあてないための寒冷地で培った知恵でした。これはいいかも!と思って、2年目から始めてみました。ちゃんと水をためて温めるために毎年ちょっとした試行錯誤は続いていますが、苗にあたる水はほんとうに温まっているし個人的には好きな技術で今でもずっと続けています。

・いい種まきの日を探している

それらと並行して、種まきの日も毎年5日ずつくらいずらしていました。1年目は4月20日、2年目は4月25日、3年目は4月29日。4月といっても蒜山ではまだまだ寒い日が多く、家ではストーブでの暖が欠かせません。それで、ゆるやかに暖かさを感じはじめる28日前後がいいかな、という感触を得ています。ただその頃はちょうどゴールデンウィークです。祝日には作業ができないので、平日で天気のよさそうな日でという条件のもと、現実的な日取りを毎年選んでいます。

 

第二期

2022-2024年までの3年間(4年目〜6年目)。家の近くに小さな田んぼを借りられて苗代を引っ越しました。家から歩いて行けるので、子どもと一緒に行けたり猫も遊びに来てくれたりとてもありがたいです。田植えのときも苗代から田んぼに苗をたくさん運ぶので、そういう意味でも家の近くにあるのはいいことです。と言っても、初めての田んぼでいきなり苗代はちょっと不安だったので、3年目の年に稲を育ててみて、なんとなく田んぼの雰囲気を感じてから4年目の年に苗代にしました。

 

・緑肥をやってみている

それまでの3年間、田植えが終わったあとは草がのびたら刈るのを年に2〜3回するだけで、他には何もしていませんでした。ただ生えてくる草の勢いが年々衰えている気がしていました。草を元気いっぱいにしたいわけではないけれど、なんというか、土の元気がなくなっているような感じがあったのです。それは苗箱をおいておくことか、苗を育てることか、詳細はわからないけれどそういった行為が土に負担をかけているのかなと想像しました。

では、土を元気にするにはどうしたらいいのか。そして、そうか、これは農家それぞれが持つ根源的な農業観の話なんだなと気が付きました。自分は土について作物について、ほんとうのところどう考えているんだろうと改めて問い直してみると、「作物を育てることで土が育っていく、土が育つことで作物が育っていく」、そんな意識が根底にあるように思いました。そしてそれは作物の残渣を土に返すということもそうなんだけど、どちらかといえば作物が育つ過程でその根っこが土や菌になんらかの影響を与えているというイメージがあります。それで緑肥です。いろいろ調べた結果、エンバク(オーツ麦)をまずは試してみることにしました。

 

4年目。この田んぼで初めての苗代だったので、また溝をほって畝をたてて水平をとって、と1年目と変わらない作業をしました。振り返ればこの年は過去一番の苗ができたような気もします。そして田植えが終わったあとに、急いで苗箱や資材を片付けて、緑肥としてエンバクを育てました。6月播種はすこし時期外れなこともあるからか、8月ごろに穂が出てきます。それを刈って、もう一度播種して、次は11月ごろ雪が降りはじめる前に刈り倒しておきました。一般的にエンバクは背の高い作物ですが、6月播種したものは膝にも届かないくらいで、8月播種したものは膝上くらいでした。うーん、あまり育たたないなぁという所感でした。

 

5年目。春に苗代の土を触って驚きました。土の感じがぜんぜん違うのです。それまでは田んぼの土らしい水気をたっぷり含んだゴロッとした土塊でしたが、びっくりするくらいサラッとしていました。触っているのが心地よいのです。エンバクがあまり育たたなかったのが気がかりだったけれど、根っこの力はすごいなと思いました。

しかし本当に驚いたのはその後、過去一番の良くない苗になってしまったのです。まず芽がぜんぜん出ませんでした。田植え機でつかえる苗箱は全体の半分ほどでした。はっきりとした理由はわかりませんが、とにかく水はけが良すぎて入水をとめるとすぐに落水していき、土がものすごく固く締まっていました。芽が出なかった箇所はヒビ割れもしていました。おそらく締まった土と苗箱が離れてしまい、水分不足で発芽できなかったのだと思いました。田植えは大変だったし秋の収穫量もすごく少なかったです。ただ、エンバクはやめませんでした。1年だけだとやっぱりわからないし、良いか悪いかはわからないけどなんらかの変化は感じたので、もう少し試してみたかったのです。前年同様、6月と8月にそれぞれ播種しました。そして8月の分では腰ほどの背丈まで育っていました。エンバクにとっては心地の良い土に変わっていったようです。問題はそれが稲の育苗にとって良いことなのか、です。

 

6年目、今年のお話です。前年と同じように春の土はサラサラしていました。手痛い反省を活かし、土が締まり過ぎないように、水を切らさないようにと各作業工程でつよく意識しました。結果的に、いくつかの苗箱では芽が出ないこともありましたが、前年と比べれば大問題にはなりませんでした。ただやっぱり土の乾きがよすぎることが気になりました。そんなある日、(たしか熱を出して布団に籠もっていたとき)、新しい手を思いついたのです。

緑肥は続けてみたい、でもエンバクは稲の育苗には課題を感じなくもない、となると緑肥として苗代で稲を育てるのはどうだろう?と。苗代に水を張り続けることになるし、稲の根は水根っぽい感じもある。それにここを初めて苗代にしたときは調子がよかったけど、その前年は稲を育てていました。苗代を固定せず、稲を育てた翌年を苗代にすることにしてぐるぐるローテーションにしている人がいるような話をどこかで聞いたような記憶もありました(すごく曖昧)。ただ苗代で稲を育てるって思いつきそうなものだけど、聞いたことがない。なにか問題があるのかな〜〜、うまくいくかわからないしエンバクももう少し続けてみたい〜〜、でも思いついたからには気になる〜〜、やってみたい〜〜〜と毎日悩み、結局やってみています。田植えが終わってから急いで苗代を片付けて、それから畝を耕し代かきをして田植え機を走らせました。この稲ももちろん収穫はしますが、一番の目的は稲の根による土の変化です。(田植えをしてから、この規模なら不耕起で手植えをしてもよかったのかな?とまた新しい考えも浮かんできました)

 

それでどうなるかは現状さっぱりわかりません。来年の春に土を触ってみてどう感じるのか、そこで苗を育ててみてどう感じるか、そしてもちろんその苗でどんな稲が育っていくのかを見て考えることです。この取り組みのひとまずの結果が出るのも来年の秋だし、それだってまだまだ途上です。一年で感じる変化と、何年も続けていった変化はまたぜんぜん違うものです。土や種に区切りなんてほんとうは無いような気もします。農家になってから「何らかの取り組みに対する結果が出る」という考え方自体が、けっこう短期的で人間的なものなんだなとよく思います。とはいえ、一人間としては毎年の収穫は生活にとても影響があるので大事にはしつつ、でも大事にはし過ぎないという気持ちをバランスよくもって向き合っていたいなぁと思います。

 

 

写真/藤田和俊