江戸時代の水田は色彩豊かであったということ

2024年12月28日

|書籍

書名:耕稼春秋(日本農業書全集4巻)
著者:土屋又三郎
発行:農山漁村文化協会

 

|書籍紹介

耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)は江戸時代の1707年に、加賀藩(石川県)の土屋又三郎が農民たちに向けて書いたものです。この日本農書全集第4巻は耕稼春秋の全7巻とその解題が掲載されていて、すべて現代語訳で読むことができます。

当時の北陸はこうした農書の多い地方として知られていました。それは全国的にみれば農業の先進地に及ばない中間地として、新しい技術段階に入った者と古い技術段階にとどまる者との格差が大きかったことを意味しているそうです。

加賀藩では武士が農村を支配するのではなく、百姓の有力者に村々の管理を委ねていました。その役職を十村(とそん)といいます。祖父の代から十村を勤める家に生まれた又三郎もまた、おもに農業の生産指導を担っていました。そうして30年がたった1694年、詳細な記録のない事件ののちに、又三郎は十村を解任、平百姓に格下げ、ほどなくして髪を剃って隠居しその23年後に死去しました。

又三郎は十村を勤めているあいだから農事研究の意欲を持っていて、精農や古老から教わったり自らも実践を繰り返したりしていました。そんな彼が時間的余裕のある剃髪生活のなかで書き上げた、後世に名を残す農書のひとつがこの耕稼春秋です。

全7巻からなる本書は、1697年に公刊された大著『農業全書』に大きく影響されていて、栽培法や農事暦からはじまり、田の面積の計算方法から税計算といった行政知識まで、幅広く取り扱われています。これは農民の知識や技術を向上させたい藩の方針のもとで、各地域の十村や上農を中核農家として指導力を発揮させるよう再教育することが目的だったと言われています。

 

|なぜ手に取ったか

数年前、たまたま目があった一冊の本を地元の図書館で手にとりました。『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか(武井弘一/NHK出版)』という本です。戦国の世があけてから概ね平穏とよべる江戸時代になり循環型のエコな社会を築いた、という一般のイメージに対し、実態は持続可能性のほころびのようなものがそのときすでに深層には流れていたのではないか、そんな提言が書かれた一冊でした。

そのなかで、個人的にわたしが一番驚いたのは第一章「米の多様性」という12ページです。端的にいえば、「かつての田んぼは色とりどりであった」ことが書かれていました。そして、その重要な参考文献のひとつがこの耕稼春秋でした。なにかを学ぶならできるだけ原著にあたりたいと思っていて、最近ようやく手にすることができました。

 

耕稼春秋には宝永年間(1704-1711)ごろの石川郡における米の品種が記されています。収穫時期の違いからくる早稲、中稲、晩稲の3分類があり、その数は合計で82品種ありました。そしてこれは原著を読めていないのですが、耕稼春秋が著されてから30年ほど経ったころに『郡方産物帳』という書物を加賀藩がまとめています。そこには、品種名 / 芒(のげ)という穂先の毛の有無 / 籾の色 / 芒の色 / 味 / 収穫期間といった6項目が記されています。記載された112品種のうち、55品種の籾の色は白 / 薄白 / 黄白といった今でも一般に目にしているもので、残りの57品種は赤 / 薄赤 / 赤黒 / 黒 / 薄黒といったものでした。そして半数以上のお米には芒があり、その色もまたさまざまだったようです。

また『江戸時代中期における諸藩の農作物 - 享保・元文 諸国産物帳から -』は圧巻の史料でした。簡単に紹介すると、享保20年(1735年)から元文3-4年(1738-1739年)にかけて、全国の大名領などでそれぞれの産物を調べた「産物帳」が編纂されたそうです。それらの中で保存がされていた一部(編者曰くおおよそ1/3)に記載のあった農作物の名前がひたすら書かれている書物です。稲に限らず野菜も果樹もあり、ただただ驚きの一冊でした。そこでは白 / 赤 / 黒のほかにも青の名がつく品種もほぼ全国的に確認できます。「青稲」、「青からぶんこ」、「青タチカルコ」などですが、緑という意味の青だったのかな、緑糯という古いお米は見たことがあるし、と勝手に想像しています。

それから、江戸時代よりも以前はどうだったのか。もしかしたら間違った理解かもしれないけれど、『森と田んぼの危機』によればもっと品種のバラつきは大きかったようです。具体的には、奈良・平城宮跡遺跡から出土した炭化米の標準偏差ばらつきはコシヒカリの5倍でした。そしてその5倍という数字は、明治時代にあった100の品種をランダムに取り出し炭化させたものと同程度だそうです。つまりそのエリアだけで100品種ほどあった、というわけではきっとないのだろうけど、それに近いという理解をしていいのかなと思いました。

 

水田を埋める稲穂の色は、一色ではなかった。「瑞穂の国」では、白い米だけでなく、赤や黒などもふくめた、バラエティに富んだ米が育てられていた。それが、開発期に広がった田園風景の現実の姿だったのだ。

『江戸日本の転換点』

 

|どう思ったか

「はじまりの味噌」というお味噌を、友人の藤原みそこうじ店さんと一緒につくっています。わたしたち禾の自然栽培のお米と大豆をつかって、藤原さん(わくさん)が野生麹菌と沖縄の海水塩で夏に仕込む玄米味噌です。

ここには2つの観点があって、1つは自然栽培と野生麹菌のつながり。野山にただよってきた菌たちがより馴染み好むのは、肥料や農薬といった現代技術で育ったものではなく、その土地の力だけで育ったもののように感じるということ。もう1つは在来種と野生麹菌のつながり。これも同じ理由で、菌がどういったものを好むかといえば、より長くその土地に馴染んでいったもののようだということ。それが、わくさんが日々の菌とのかかわりで感じていたことでした。そしてその菌の好みは人が食べておいしいかどうかとは関係がないようだ、とも。

わたしは米農家としてこれまで10品種以上の稲を育ててきました。その多くが在来種とよばれる明治時代ごろの品種です。正直にいえば、食べておいしいと思えるものは多くありませんでした。素朴であると表現することができるかもしれませんが、粒は小さく、味はあっさりというよりたんぱくです。米農家が育てる品種を選ぶときの基準は主に2つで、おいしいか?そしてたくさんとれるか?ですが、わくさんの話を聞いて思ったのは、そこに第3の基準があるのではないかということです。つまり菌が好み、おいしいお味噌に醸してくれるかどうかです。

規模の割合でいえば、日本の田んぼから在来種は消えたといって差し支えないといった記述をどこかの本で読んだことがあります。それがまた、もしわたしたちの試みが本当なら、昔はよかったという懐古主義ではなく、今わたしたちが食べても新しくおいしいものとして見出される稲があるかもしれない。そんな考えに至って以来、小さな米農家ではありますが、ささやかな使命感のようなものを抱いています。

 

そしてそんな在来種の中には、穂先の毛である芒のあるものもたびたびありました。黄金色に染まる秋の田んぼの一隅にそうした在来種の白や黒がよく映える、そんな不思議で美しい風景を初めて見たときのことを今でもよく覚えています。米をつくるために育てている稲の、そのものの立ち姿をただずっと見ていたいとすら思いました。それから自分のなかで、「はじまりの味噌」は目的のようでありながら同時に、在来種を育てつづけていく手段であるかのような感覚があります。

ちょうど時を同じくして前述の本に出会いました。色彩豊かな田んぼをほんのわずかでも想像できた自分がそこで思ったのは、それを見てみたかったということでした。かつての田んぼは今のような機械農業に適した四角ばかりではなく、もっとさまざまな形をしていました。よりそれぞれの地形に沿ったものだといってよいと思います。そこで育てる稲には早稲から晩稲までがあり、籾も芒の色もさまざまで、畔には大豆や稗を植えていた。今よりも田はもっと身近で、そしてある種の強い覚悟をもって向き合っていたであろう色彩豊かな田んぼとその美しさを、わたしは見てみたかったのです。

もちろんいまの黄金色の農村風景も美しく満ち満ちています。一米農家としてそれを実現するための努力や苦労もすこしはわかってきたような気がしています。ただ、それがわたしたちの原風景になったのは明治の中期ごろからでした。それ以前に生きた人たちは、もっと多様で色があふれた風景のなかで暮らしていたのです。そんな農民たちにとっての当たり前や価値観は、それだけでも今とはきっとまたぜんぜん違ったものだったのではと想像します。決して楽ではない農の暮らしにあった豊かさと楽しさの深みを、自分はいつか味わえるんだろうかと思います。

 

農民というものは、朝に霧を払って田に出かけ、夕に星空を見つつ帰路につくものである。また、遠方にゆき、あるいは野山で働いていて、少し休もうとするとき枕にするのは、あぜである。そのような暮らしのなかにこそ楽しみがある。

『耕稼春秋』

 

色彩豊かな田んぼとはどういうものなのか、品種とは何なのか、現代にも通じる農民の心はあるんだろうか。それにここでは省略しましたが、農民と権力者といった比較の意味でも興味深い記述がありました。わたしたちが失ったものを知ることは無意味ではないと強く思いました。もっともっと知りたい読みたいと思えることが増えた奥深い一冊です。

 

|参考書籍

耕稼春秋(農山漁村文化協会)
江戸日本の転換点(NHK出版)
稲学大成 第3巻 遺伝編(農山漁村文化協会)
江戸時代中期における諸藩の農作物(安田健)
森と田んぼの危機(朝日新聞出版)

種をあやす

2023年08月18日

長崎・雲仙の岩崎さんといえば、自分たちのような農家で知らない人はいないであろう農家さんです。

大好きな野菜農家さんが岩崎さんの畑を見て野菜を食べたとき、恐縮ながら自分たちの道のずっと先にいる新しい師匠に出会ったように思ったよ、と教えてくれたのをよく覚えています。それ以来、いつかその畑に行ってみたいなという気持ちと、いやでもさすがにちょっと恐れ多いなという気持ちの両方を抱いています。

この本を読んで感じたことを、せっかくだから言葉にしておきたいと思いました。

 

最後のページを閉じて真っ先に思ったのは地味だなということ、そしてだからこそ、誇張も脚色もないこれが本物の言葉なんだなと思いました。岩崎さんといえば農業界のレジェンドのひとりです。先に出た農家さんは、同じ野菜農家として見て岩崎さんのすごさは作業の速さだと言っていました。自分だったら数手かかる一つの作業を岩崎さんは一手でやると。その場にいてもきっと私には見えませんが、そういう確固たる技術があるからこそ、専業農家として40年、50種類の在来種の種を採りつづけてこれたんだと思うと聞きました。そんな岩崎さんの言葉が、初めは自分が採った種に自信がなくて市販の種のなかに一列だけ蒔いたとか、種をあやす行為が恥ずかしくて人目につかないよう山や川の土手でひっそりとやっていたとかなのです。でも、というかだからこそ、十何年ものあいだ見てきた大根の花に、ある日突然深い感銘を受けたという言葉に自分も心が震えました。

「花を見て、これが野菜のもっとも美しい瞬間だと感じる心こそ、農民にとって大切なもののように感じます」

この本を端的に紹介するなら、きっとこの一節を選びます。人が食べる目的で育てる野菜の、その先で種をつなげるために咲かせる花の美しさに心を動かされることが、岩崎さんの農業なんだと思いました。

 

それから、野菜と穀物はぜんぜん違うなということ。穀物は食べるものがそのまま種なので、ある意味では収穫がそのまま種採りです。もちろん種採りの技術はあるけれど、自分たちのような種類の穀物農家には種を採りつづけることは当たり前の行為です。でも野菜は違います。私が唯一、家庭菜園で経験のある種採りは人参です。よい頃合いで人参を抜いて、いいものを選んで植え戻し、花が咲くのを待ってから種をとります。庭の一角が人参の白くささやかな花でいっぱいになり、なんていい風景なんだろうと思いながら、でも営農ベースでこれを続けるのは大変だなと思いました。岩崎さんも生易しいものではないと書いていたけれど、自分にはとてもとてもできません。

でもその一方で、さっき書いたこととも矛盾するのですが、なんかいいなぁって羨ましく思いました。岩崎さんが夢中になった野菜との関わりを、穀物とはまたぜんぜん違った関わりを、自分もやってみたいです。営農するほどの規模ではできないから家庭菜園として小さくでも、蒔いた種が、土から芽を出して、大きく育って、咲かせる花を一つひとつ自分も見てみたいです。畑をちょっとあけて、できれば来年の春から少しずつ、楽しみになってきました。心の動く本でした。

 

そもそもこの本を手にしたのは、『はじまりの味噌』についてもっと深く考えたいと思ったからでした。私が在来種の稲を育てて(いつかは大豆も)、藤原みそこうじ店さんが野生菌を採って、玄米みそをつくるこの取り組み。これまで10種類ほどの在来種の稲を育ててきましたが、その難しさや美しさもすこしずつわかってきました。明確においしくないなぁと思ってしまうことの多い在来種のお米も、野生菌でお味噌にしたら他のどんなお米でできたお味噌よりもおいしくなるかもしれません。もしそうなれば、きっと新しく残していける在来種の稲が増えていきます。穀物と野菜とは違えど、在来種とは何なのか、在来種を守るとはどういうことなのか、岩崎さんの言葉にきっとヒントがあるんじゃないかと思いました。でも読んでみての感想は、正直ぜんぜん考えが及んでいなかったな〜〜ということでした。とても長くなってしまうのでこの話はまた別の機会にしますが、どうしたものかなぁと大きな宿題を頂いた気分です。

 

最後に、勝手ながら写真集をつくってほしいなと思いました。大判で、その色とりどりの野菜や花を見ることができたらいいなぁと。どなたか、ぜひ!