今年もどうぞお米をつくってくださいとお願いする
2023年03月08日
雪もすっかり溶けてきて、はじまりの冬が終わろうとしています。田んぼも山も視界に映るものすべてが白く染まって、どう考えても抗いようのない大きな自然の営みの中に、この一瞬を生きているんだなと身をもって感じる季節でした。
私は米農家でありつつも、これは自分がつくったお米なんだとどうしても思えませんでした。年数を重ねるうちにどこかで身につく自信が足りていないだけだと言い聞かせてきましたが、4年目を終えてもこの気持ちは変わりません。それが先日ふと、自分がつくるわけではなく自分は環境を整えることに関わって、あとはお願いする立場にいるんだと、そんな言葉がわいてきました。いやでも農家としてこんなこと言ってていいのかな、と心配にもなりましたが、いまの私には一番納得感のある素直な表現だと思いました。
すごくふつうの話だけど自然の循環がすべての先にあります。季節が次に次にとめぐっていく力があって、それは自分が生まれるずっと前からあって、そして自分が死んでからもずっと続いていきます。その雄大な動きにあわせて、できるだけ上手にタイミングよく、自分がほしい実りの種をそっとおろして、その成長にあわせてささやかな関わりを続けていくこと。それが自分の農家としての仕事の本質です。これを言えてとてもすっきりしました。
古来から稲作が祈りと近い関係にあったことを、私は心のどこかでそれが原始的で理性に欠ける営みであるように感じていました。でも自分がずっと抱えていた違和感を突き詰めた先にたどり着くのが、ここであったのかと驚きました。
先日読んだ『気流の鳴る音』という本に「原生的な人類が文明化された人間には信じられないほどの視覚や聴覚を持っていたことはよく言われるが、そうした退化が自然や宇宙、人間相互に対して、失ってきた多くの感覚の氷山の一角かもしれない」といったようなことが書かれていました。
きっと本当にその通りで、いまの私には到底想像もできない感覚で世界と接していて、夜空の星を眺めて星座や物語を生みだすことも、祭り祈りそこに神を見出すことも、その人たちにとっては紛れもない眼前の真実であり、そしてそれはいろいろな感覚を失い知識で肥大化した私には見えていない本質だったようにも思えてきます。
春の芽吹きをそこかしこで見つけます。今年もたくさんの汗をかきながら私は私の祈りを捧げます。
写真/藤田和俊
今年のもち米と来年のお餅
2023年03月05日
先日、お取り扱い販売店さんに最後の発送をして、今季のお餅の販売が終わりました。ノートを読み返すと昨年の5倍ものお餅をつくりお届けしてきました。びっくりです!手にとってくださったみなさま、お店のみなさま、そしてお餅をつくってくれたのぎ屋の田村家にも心から感謝です。私たちも冷凍庫にストックを用意できたので来年の冬まで安心です。
そして、もうひとつ。お餅シーズンを終えたこれからは、もち米の使用量が減っていきます。これからもきちんと管理して販売を続けますが、昨年の感覚だとすべて売り切れることはなさそうだなと考えています。
—–
実は禾として農作物が次の収穫まで(きっと)売れ残るのは初めてのことです。ありがたいことに毎年たくさんの方に支えられ、すべての農作物をお届けしてこれました。私のふわっとした感覚の話ですが、生産力の伸びとお届けしていける力の伸びとが今までは不思議とバランスがとれていましたが、4年目の今年は生産力がグッと伸びたのです。
いつかこういうときも来るだろうとは想像していましたが、いざ直面するとなかなか複雑な気持ちです。販売という観点では売れ残ってしまうだろうことはやっぱり悲しいし、お米にも申し訳ないです。一方で生産量が増えたことは純粋にうれしいし、今まではずっと無くなってしまってすみませんとお伝えしていたので、なんだかやりきったような感覚もあります。
そんな両極端の想いが頭の中をぐるぐると巡りつづけ、それで、ふと思ったのです。そもそも古米って良くないんだっけ?古米でつくったお餅っておいしくないのかな?と。うるち米についていうと、実は秋から冬にかけて我が家の食卓では古米が中心になります。年間購入用にそれなりの余裕をもってお米を残しているので、秋の新米を何度か味見してからは、その残ったお米を食べています。ササニシキの古米はなんというか、しみじみとした慈悲深さを感じて、個人的にはけっこう好きな味わいです。だからもしかしたら古米でつくったお餅も、これはこれでいい!となるかもしれません。これこそがアウフヘーベン!(?)と、思い立ってから気持ちが楽になりました。
今年も小さな面積でもち米をつくるので、新米のお餅か古米のお餅か、きちんと選んでいただける工夫を考えられたらと思っています。秋までは時間があるので、もしかしたらこれからたくさんご要望があって無くなるかもしれません。それはそれでやっぱりうれしいです。でも、そうでないならないなりに、まっすぐ向き合って、素直に正直に、楽しく豊かな気持ちでご提案ができたらいいなという心の表明です。
写真/藤田和俊
玄米煎餅ができました
今年もこのご紹介ができること、ほんとうにうれしく思います。
禾が扱うものできっと一番人気の玄米煎餅。こればっかりは、お待たせしました…!という言葉が自然に口から出てきます。私も一年間ずっと楽しみにしていました。
東京・足立にある日比谷米菓さんが焼いてくださるお煎餅。原料にお米は変わらず禾の亀の尾を、お醤油は今年からは日常的に愛用している福岡・糸島のミツル醤油醸造元さんの生成りをたっぷりとつかわせていただいた、ただそれだけの素朴ないいお煎餅です。
そして今年は大変心苦しいのですが値上げをさせていただきました(税抜600円→700円)。原材料の変更や加工賃の値上げ等が理由です。これからもいいと思うものをつくっていけるよう励みますので、どうぞご理解いただけますと幸いです。
お買い求めはオンラインストアから、どうぞよろしくお願いします。
さて、ここから先はぼやきです。よかったらどうぞお付き合いください。
*****
昨年の11月。今年もぜひお願いしますと職人さんに電話したとき、体調を崩してしまってもうできないかもしれないと言われました。幸い年明けには回復・再開されて、そのタイミングでお願いできました。その間2ヶ月ほど、一年前初めてつくってもらったときのことを何度も思い出しました。「おれももう年だからいつまでできるかわからないんですけどもね」と言われて、「いやいや〜そんなそんな。ずっとお願いしますよ!」と何も考えずに答えていた自分がいました。私にはどうすることもできないけれど、その言葉をほんとうには受け止めていなかったことを後悔しました。
農家として独立してから、つくり手がわかるものへの愛着や尊敬の念をつよく抱くようになりました。ひとりの個人や小さな組織がもつ技術、信念や生き様の結果としてうまれてくるものに、大げさかもしれないけど、魂のようなものが宿っていると感じるようになりました。でもそのすごさは同時に、顔の見えるあの人になにかあれば、あるいは気持ちが薄れたり移ろったりしたらもうそれでおわりなんだという、小ささや儚さと表裏一体なんだと身をもって理解しました。
先週お電話したとき、「売れ行き次第なんですが今年は夏頃にもう一回仕込みをお願いしたいんです」と伝えると、「約束はできないけど体が動かなくなるまではずっとつくってますから、また連絡してください!」と言われました。笑いながら、でも力強く言ってくれた言葉を今度はしっかり噛み締めながら、いろいろな願いを込めて保冷庫の手前のほうにお米を残してあります。もちろん自分だってどうなるかはわからないから、大切なものをちゃんと大切に、そうやって仕事をして生きていかなきゃいけないなと思いました。