[2]品種改良の歴史、技術を通して人の心を知るということ
2025年01月29日
|書籍
書名:稲 品種改良の系譜(ものと人間の文化史86)
著者:菅洋
発行:法政大学出版局
|書籍紹介
ものと人間の文化史は法政大学出版がつくる重厚な書籍シリーズのひとつです。記念すべき1番は1968年に発行された「船」で、直近では191番「鷹」が2024年11月に発行されています。「貝」や「森林」など同タイトルでⅠ、Ⅱ、Ⅲと続くものもあり、冊数としては219まで出ています。
本の内容はタイトルによって異なりますが、出版局HPにあるこのシリーズの説明文章がとても素敵なのでそのまま引用します。
文化の基礎をなすと同時に人間のつくり上げたもっとも具体的な「かたち」である個々の「もの」について、その根源から問い直し、「もの」とのかかわりにおいて営々と築かれてきた暮らしの具体相を通じて歴史を捉え直す
『法政大学出版局HPより』
わたしはこのシリーズが大好きです。なにか学びたいテーマがあるときには、まずここで出版されていないかを調べます。すこし前に禾でつくる加工品の名前を考えたときにも、このシリーズから「もち」を買って読みました。残念ながら「うどん」はありませんでしたが、もしかすると125番の「粉」は関連があるかもしれないなと思っていて、いつか読んでみたい一冊です。コレという何かを自分のテーマとしてお持ちの方は、ぜひ一度ここで探してみるのもおすすめです。
1998年に出版されたこの86番「稲」は稲の起源や日本への渡来にはじまり、明治時代に山形県・庄内平野で生まれた「亀の尾」という品種とその物語を中心に据えて、最後には宇宙で育てる稲についてまで書かれています。品種改良の系譜を副題にすえながらも、品種の先祖さがしをするわけではなく、品種がどのように発展していったのか、わたしたちが品種にどう関わってきたのかを描いた一冊です。
|なぜ手にとったか
前回にも書いたとおり、わたしは在来種に興味を持っていました。明治時代ごろの在来種とそれにまつわる逸話を知ることはおもしろかったです。またそれ以前にも無数にある、残された記録は名前だけといった稲ですら、誰がいつどうやってつくったのか、どんな稲だったのか詳細がなかったとしてもなお、自分にはおもしろかったのです。
洪水が頻発する岐阜県のとある集落では3年に1度は水浸しで収穫が皆無となり、田植えでは60センチも水があるために足の指に苗をはさんで植えるほど、そしてそこにあった品種が「池底」だったとか。あるいは発達した芒をもった「猪食わず」や「雀不知」という品種を想像すると、猪や雀も嫌がって食べなかった稲だったのか、それともそんな稲であってほしいと願った農家が名付けたのか。そんな風に、当時の農民たちの心がわずかばかりでも見えてくるような気がするし、それは今でもあまり変わらないある種の普遍的な「人の心」であるようにも思えます。
しかしその一方で、品種にとって重要な技術である品種改良そのものをぜんぜんわかっていないことが、自分のなかの課題感として大きくなっていきました。技術の実態や詳細がわからないとしても、品種改良という単語と、なにかいろいろやって新しい品種をつくっているんだよね、以上のことをもうすこしでもちゃんと知りたいと思うようになりました。
それから、「稲 品種改良 歴史」などで調べていき、いくつかの本を読みました。育種という言葉も初めて知りました。数式や図式で表された技術の話はぜんぜん頭に入ってこないものの、ようやくこれくらいの粒度で学びたかったんだ!とたどり着いたのが『品種改良の日本史』という本でした。もう絶版で容易には手に入らないことが残念ですが、わたしにはとてもありがたい一冊でした。
と、ここまできて、いろいろ読んで勉強になりましただけではなんだか不誠実にも思えるので、自分なりに理解した品種改良の流れを書いてみたいと思います。そしてもしここはちょっと違うんじゃない?という点があれば、ぜひ(やさしく)教えていただけましたらうれしいです。
育種はなんとなくは行われない。何らかの課題があるからであり、それを育種目標とよぶ。収量を増やしたい、病気にかかりにくく、水不足でも育ってほしい、など。
『種を育てて種を育む』
育種の歴史は古く、人類が農業をはじめた1万年前以前に遡ります。野生の植物を採取して利用する、自分にとってなるべくいいものを選ぶ、持ち帰って住居のまわりに持っていく。こうした営みがまさに人為選抜であり、育種の起源といえるものでした。
そもそも野生稲と一般的な栽培稲の違いは、脱粒性の難易、成熟のそろい、種子の休眠性にあるといわれています。野生稲は、同じ株や穂でも成熟の時期が著しく異なり、また成熟した籾は直ちに脱粒して地上に落ちてしまいます。そしてその籾も適切な温度や水分状況でも一度にすべてが発芽するわけではないという性質もあります。それらは鳥や獣、あるいは様々な気候環境から種子を守るための特性でした。ただしどれも栽培には不向きです。人間にとって都合のよいものをと、安定した管理ができるように、多く穫れるように、寒冷地でも育つように、病気に強いように、肥料が効くように、食味のよいように、とわたしたちが選び続けてきた静かな歴史がそこにあるのです。
自然突然変異体の利用:
稲の品種改良についていえば、おおよそ明治時代になるまでの長いあいだはすべてこの自然発生した突然変異からできたものだと思います。例えば東西で有名な2つの在来種も、山形県の亀の尾は惣兵衛早生の突然変異として見つかった3本の穂からはじまっているし、京都の旭は日の出の突然変異である2本の穂からはじまっています。在来種と呼ばれて古くからあるようにも思える稲も、当然ですが、脈々と続けられてきた営みのなかで名前の残らなかった農民によって見出されてきた名前の残らなかった稲の末裔です。
稲の品種に関する最も早い記述は万葉集にあるそうで、「かつしか早稲」や「かどたわせ」といった早稲という言葉が出てきます。奈良時代には種もみの俵につけた名札とされる木製の札に早晩性や草丈の長短を示す品種名が出てきます。鎌倉から室町時代には品種の関心が高まり、栽培上の性質や食味の良否などの視点から新しい品種の発見や分類が進みました。酒米に適したものや多収のものがどれかといった記録もあるそうです。それから江戸時代になると全国各地の農書に品種の分類や分布の記述が見られます。総じて、時代がくだり農業技術の向上するにつれ観察が細かく欲求が厳しくなっていくことで、品種の区分や内容が複雑になっていきます。
そんななかでも明治時代がひとつの分水嶺になるのは、1890年代に国と県に農業試験場が設置されたことに起因します。同時期に、生物の教科書にも出てくるメンデルの法則が再発見され、遺伝学に基づいた品種改良が発展していきます。設置当時は各県で数百を超える在来種が育てられていました。そこで県の試験場がそれらの比較試験を行い、それぞれの気象や土壌にあった数品種を推奨していきます。北海道の赤毛、東北の亀の尾、北陸の大場 / 石白 / 銀坊主、関東の愛国 / 関取、東海の神力 / 竹成、近畿中国の竹成 / 亀治 / 神力 / 雄町 / 旭、四国の神力、九州の神力 / 雄町 / 旭、などがそれにあたります。ちなみに明治37年の全国調査では稲の品種が4,000あり、そこから異名同種や同名異種などの整理を経て3,500ほどになったそうです。
純系選択法:
地域ごとに推奨された有力品種ですが、株によって特性が不揃いであるという課題もありました。そこで品種ごとに代表的な特徴を示し、特性のそろった品種に仕上げていった取り組みが純系選択法です。こうしてできたのが「亀の尾1号」や「神力3号」といった品種や、あるいは「滋賀旭」や「美濃旭」といった品種でした。
交雑育種法:
当初は成果も著しかった純系選択法ですが、もとの品種がもつ特性以上の改良が期待できなかったために、1900年代からは2つの品種の交配によって両親の長所をあわせた個体を選抜する交雑育種法が取り組まれました。1913年に生まれた「陸羽132号」は宮沢賢治との関わりでも有名ですが、亀の尾4号と愛国を純系分離した陸羽20号との交配でうまれた交雑育種法での優良品種第一号でした。禾が育てるササニシキもこの技術によってハツニシキとササシグレからうまれたもので、旧系統名東北78号の水稲農林150号でもあります。
人為変異体の利用:
自然界では放射線などが生物の遺伝子にあたっておこる突然変異も、放射線や化学薬品をつかうことで誘発できるようにもなりました。その利点はもとの品種の遺伝子型を大きく変えることなく、1,2の欠点を突然変異によって改良できることでした。1966年にうまれた「レイメイ」は「フジミノリ」を短稈に、つまり肥料をたくさん入れても倒れないよう背丈を短くしたもので、世界初の放射線育種の実用品種として私が読んできた品種に関するどの本にも記載があったほどの有名品種です。
この研究のなかで、突然変異の起こり方で一番多いのが短稈化であることもわかったそうです。次いで出穂時期が早くなったり遅くなったり、粒の形が変わったり。その一方で、味の変化や病気への耐性変化もあまり改良ができないこともわかりました
一代雑種(F1)の利用 :
1970年代からF1利用の育種もはじまっていて、一般的にはハイブリッドライスとも呼ばれています。遺伝子型の異なる品種のあいだで交雑すると雑種第一代は一般に両親よりも旺盛な生育を示し、環境に対しても安定した反応を示すようになるそうです。イネは自殖性作物なので、雑種の種子をつくるには開花前に花粉を取り除く必要が出てきます。そこで自然界で発見された雄性不稔種や突然変異で発生させたものを利用して、正常系統と間作することで、自然交雑で雑種をつくることができるそうです。
日本国内での普及は非常に限定的のようですが、例えば2009年の中国では作付面積の半分以上がハイブリッドライスになっています。また、たまに見かける議論ではありますが、いまのわたしの理解だと親は雄性不稔であるものの、子どもにあたるそのF1種は基本的には雄性不稔ではありません。
遺伝子改良技術:
2002年にイネゲノムが解読されて以降、イネのゲノム編集や遺伝子組換え技術は発展し、いろいろな可能性が模索されつづけています。特に、ゴールデンライスのような栄養価の大幅な強化、スギ花粉アレルギーを抑制したり糖尿病を改善する可能性のある作物など、品質向上に関する多くの開発が進められています。また、BT作物のような耐虫性や、気候変動への対応としての環境適応性の改善などにも大きな期待が寄せられているそうです。
それと同時に、環境や生物多様性への悪影響を考慮してさまざまな措置がとられるなど、影響の大きな技術がゆえの大きな不安や懸念も見受けられます。ただ総じて、これからの社会情勢を考慮すると優位性も高く、安全性を重視しながらより発展していく分野であるとされつづけていくことも間違いないのだろうなと思いました。
こういった取り組みのなかで、1931年から1945年にかけて在来品種から育成品種に置き換わっていきました。現在、国の登録品種はおおむね1,200品種、主食としてつくられているものは320品種ほどだそうです。しかし国立の農研機構、いわゆるジーンバンクでは世界中から集めた約4万点のイネ遺伝資源を保存しています。『稲学大成 第3巻 遺伝編』には在来種の諸形質は奨励品種に比べて一般には劣るが、変異が大きく、優るものも含まれ、育種素材として価値の高いものがある、といった記述もありました。いま現在でも育種現場で在来種を扱っているのはわかりませんが、いつか実際のところを伺えるような機会があったらいいなと思いました。
それと、これは育種とどう関係があるのかわからない疑問として、種を採りつづけることでその土地に馴染んでいくという考え方があります。種採りはわたしにとって毎年の基本動作ではありますが、春から7年目というまだまだ若手なこともあり、なんとなくわかるような気もするけれどそれを具体的に痛感していて断言できるほどだとは正直思えません。ただ、長崎の雲仙で種採り農家をされている岩崎さんは著書『種をあやす』のなかでその重要性を説かれています。毎年の気候や変化を種は記憶していくのだと。その一方で大学で研究をされている方から、保存している種子の更新は数年に一度といったお話を伺ったことがあります。ここからはもう農家の現場感覚としか言いようのないものですが、もしそれらが本当だとすると、種の保存は重要であるが、毎年種を蒔いて育ててその年年の変化を体感してもらい続けることも同じように重要なのかもしれないなとも思いました。
|どう思ったか
農家1年目ではすべての田んぼでササニシキを育てていました。そして2年目になってからは亀の尾やこがねもちなど複数品種の栽培に挑戦していきました。そのときに、これはぜひ育ててみたいと思ったものが農林1号でした。当時ある逸話を読んで感銘を受けたのですが、その詳細が最近読んだ『こめの履歴書』という本に載っていました。その農林1号と、それから藤阪5号という品種とその育種家たちについてすこしご紹介するところからはじめたいと思います。
農林1号は1931年に並河成資技師が育成した品種です。その名のとおり農林番号を与えられた最初のお米でした。並河技師が新潟県農事試験場に育種主任として着任したのは1924年のこと。東大農学部を卒業し、29歳の若さでした。当時の北陸はその環境に適した品種の育成が遅れていたそうです。新潟の主な稲作地帯は今でこそ乾田化していますが、そのころは腰までつかって農作業をするほどの湿田地帯でした。また9月下旬から10月はじめにかけて北陸特有の秋雨に見舞われ、梅雨のような空がつづき、農作業は妨げられ米も十分に乾燥せず品質も落ちてしまっていました。
そうした状況ではじまった農林1号の育成は、1922年に国立農事試験場陸羽支場で稲塚権次郎が陸羽132号と森田早生を交配させたことが出発点になります。育成には10年の歳月がかかりました。選抜は最後に一つを選ぶために出発点でたくさん交配し、次々に捨てていく作業です。ときにはその年の全組み合わせを捨ててしまうことも多く、それほどに厳しいものです。稲塚技師が第5世代まで選抜を行い、並河技師がそれ以降を行います。
引き継いだ47系統を圃場に植えて47系統群となり、1系統群につきそれぞれ5系統ずつ、さらに1系統に72株ずつ植える。系統ごとに稈長、分月げつ具合、出穂、成熟期と細かく調べて記帳し、秋の収穫期によいものを選んであとは捨てる。冬のあいだに細かく調査してさらにふるいにかけ、第6世代として選抜したのは15系統でした。それを何年も繰り返した先に、第9世代のなかから優れたものとして選び出されたものが農林1号になりました。
当時の北陸のお米は山陰と並んで味の悪さで定評があり、鳥さえまたいで通る「鳥またぎ米」と酷評されたそうです。それでも、農林1号はおいしいお米でした。そして早生の農林1号は端境期に出荷できるので売上もよく、秋雨の前に収穫できるので雨のなかのつらい作業からも開放され稲作の安定に大きく貢献しました。人手の余裕もできたので秋冬用の白菜やキャベツなどの野菜もつくれるようになりました。農林1号がうまれてから農業の形態そのものが変わったとされています。
また農林1号は親としての遺伝力でも非常に優れていました。農林22号との交配でうまれた子にはコシヒカリ、ホウネンワセ、ハツニシキなどがあり、孫にはササニシキがいます。それは亀の尾から陸羽132号に、そして農林1号へとつながってきた食味と品質の良さからきています。そうした系譜に目を向けて思うのは、いまのわたしたちが日々食べているお米のほとんどが農林1号につながるものであり、その育成が日本の米市場においても重要な意味を持っていたのだということです。
それから藤阪5号について。藤阪5号ができる15年前の1934年、昭和9年の東北稲作は大凶作となりました。8月に山へ焚き木をとりにいき、綿入れを着て田んぼの草とりをするほどの冷夏でした。6月20日過ぎに田植えをしてから8月はじめまでの48日間、無風曇天がつづき日を見ることがありませんでした。稲の生育は遅れ受精もできず、9月の田んぼは一面ススキの穂が出たように真っ白でした。特に被害の大きかった岩手県の北上山地では前年の1割ほどの収穫量となり、数年にわたって尾を引くほどの借金を背負い、若い女性の身売りもあったと書かれていました。17歳の子、14歳の子、6歳の子。もう両親には会えないと泣きながら峠を越えていったそうです。
その後に東北6県に凶作防止試験地が設けられました。そのひとつであった青森県藤阪に赴任した田中稔技師は33歳の若さでした。冷害に苦しむ農家の役に立ちたいと、17年のあいだ冷害研究に精魂を傾けました。そうして1949年にうまれた藤阪5号は東北に普及し、昭和9年とほぼ同じかそれ以下の低温となった1953年においても甚大な被害を受けることはありませんでした。その功績をもって田中稔技師は内閣総理大臣賞と農林大臣感謝状を受賞しました。
わたしはつくり手として、お米をおいしいと思っていただけたらうれしいし、お米を食べて豊かな気持ちになってもらえたらいいなと思っています。ただ、それよりもどんなときでも全てに勝るのは文字通りだれかの命を支えることです。わたしは飢えや栄養失調を知らないし、現代日本では長いあいだお米は飽和していました。ただ、こんな時代でも農家として忘れてはいけないものを忘れないために、日本の食を支えてきた先人たちに感謝と尊敬の念を込めて農林1号を育ててみたいと思ったのでした。素朴で愛おしい味がしました。
しかし育種家たちの人生は輝かしいことばかりではありません。農林1号をつくり北陸稲作の救世主となった並河技師は、1932年に国立農事試験場中国小麦試験地(姫路市)の主任技師として栄転しました。当時は全国的に育種組織が整備され、業績への期待も大きく評価も厳しかったそうです。あまり特徴のなかった姫路での育種は並河技師にとって大変な心労で、農林1号の栄誉も重くのしかかっていました。育種は単調な重労働が毎日毎日続きます。一つの品種を育成するには短くて7年、ふつうは10年、長くて15年以上がかかります。それでも農林登録されるようなものは数年に一つくらいしか出ない厳しさもあります。そして1937年の秋、並河技師は自ら命を絶ちました。まだまだ40歳の働き盛りでした。
同じように、1963年にササニシキをつくった宮城県県立農業試験場古川分場では、それから1981年にサトホナミをつくるまでの18年間農林登録できるほどの品種を一つもつくることができませんでした。その間、育種家の地味な仕事を理解できない人々から批判を多く受けて心身を疲弊させ、ふたりの育種家がこの世を去りました。
いまの日本に住んでいれば概ねいつでもどこでもお米が買えます。その要因のひとつは間違いなく稲の増収です。ひとつの区切りとして、1880年から1960年にかけての80年で2倍以上の収穫量が見込めるようなりました。その増収にもいろいろな理由がありますが、育種による寄与は約6割であるという計算を見たことがあります。健康な人が健康について考える必要がないように、お金がある人がお金に頭を悩ませることがないように、お米のある社会はお米について深く考えることもありません。ひとつの素晴らしい時代になったのだと思います。ただしそれは、紀元前10世紀ごろに稲が日本に渡来してから完全自給を達成したとされる1967年までのおおよそ3,000年間、絶え間ない社会変化とともに、それを願った無数の人生が捧げられた先にたどり着いた今であるということを、わたしたちは覚えておいてもいいような気がしました。
そして品種改良についてわたし個人の正直な告白をすると、こうして学ぶ以前には心のどこかでそれをあまり良くないもののように感じていたように思います。もちろん在来種ですら選別の果てであることは知っていました。ただ、技術の詳細がまったくわからないことに加えて、いまの時点では感知できないだけの危険性に対するどうしようもない不安がありました。それは例えば苦海浄土で描かれた水俣での公害や福島での原発事故などから想起されるような、科学や技術に対するある種の不信感ともいえます。生活のすべてをゼロリスクにすることはできないと知りつつも、それは頭で理解するしないの話ではなく心の反応の話としてそうであったのだと思います。
今回、品種改良について改めて本を読んだものの、技術そのものへの理解が深まったとはとても言えません。それでも、そこに関わる人たちにたくさん触れたことで、自分の心になんらかの変化を感じています。その当時の人たちが向き合ってきた当時の課題や情熱を通して、そうした技術が無味乾燥なものではなく人が人を思ってつくられたものだと感じられるようになったのだと思います。そしてそこにより深い敬意と感謝の念を抱くようになりました。少なくとも、品種改良という単語を知っているくらいの知識しかなかった頃に比べれば、よりフラットな心持ちで技術に目を向けられるようになった感覚があります。
自然栽培が未来の可能性や選択肢のひとつだと考えているように、こうした技術もやはり可能性のひとつです。ただそれらあらゆる技術の本質がなにかといえば、安定して食べものが生産供給されること、そしてその担い手たちが健やかな日々を送れることに尽きるのだと思います。社会情勢も環境も大きく動いていくなかで、どういうものが食の豊かさに資するのか、そんな風に向き合えたらいいのかなといまは思っています。
最後に、並河氏の逸話には続きがあります。彼の功績は戦争の激化とともに忘れ去られてしまったのですが、戦後の1949年に新潟県知事や国立農事試験場らが発起人となり、並河氏の功績を称えようと並河顕彰会を設立しました。そこで北信五県の農家に向かって、たくさんの命を救った農林1号の生みの親である恩人の遺族を救おう、という呼びかけ文とともに、米一握り運動を訴えました。多くの農家が喜んで寄せた募金は当時のお金で500万円ほどでした。そうして並河技師の胸像を建て、遺族の生活安定と、農業技術功労者の表彰を進めることになったそうです。
|参考書籍
稲 品種改良の系譜(法政大学出版局)
品種改良の日本史(悠書館)
種を育てて種を育む(大阪公立大学共同出版会)
稲学大成 第3巻 遺伝編(農山漁村文化協会)
育種学(養賢堂)
育種学要論(養賢堂)
イネゲノム配列解読で何ができるのか(農業生物資源研究所)
イネゲノムが明かす日本人のDNA(家の光協会)
米の辞典 稲作からゲノムまで(幸書房)
種をあやす(亜紀書房)
こめの履歴書(家の光協会)
作物品種名雑考(農業技術協会)
イネの育種学(東京大学出版会)
日本水稲在来品種小辞典(農山漁村文化協会)
[1]江戸時代の水田は色彩豊かであったということ
2024年12月28日
|書籍
書名:耕稼春秋(日本農業書全集4巻)
著者:土屋又三郎
発行:農山漁村文化協会
|書籍紹介
耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)は江戸時代の1707年に、加賀藩(石川県)の土屋又三郎が農民たちに向けて書いたものです。この日本農書全集第4巻は耕稼春秋の全7巻とその解題が掲載されていて、すべて現代語訳で読むことができます。
当時の北陸はこうした農書の多い地方として知られていました。それは全国的にみれば農業の先進地に及ばない中間地として、新しい技術段階に入った者と古い技術段階にとどまる者との格差が大きかったことを意味しているそうです。
加賀藩では武士が農村を支配するのではなく、百姓の有力者に村々の管理を委ねていました。その役職を十村(とそん)といいます。祖父の代から十村を勤める家に生まれた又三郎もまた、おもに農業の生産指導を担っていました。そうして30年がたった1694年、詳細な記録のない事件ののちに、又三郎は十村を解任、平百姓に格下げ、ほどなくして髪を剃って隠居しその23年後に死去しました。
又三郎は十村を勤めているあいだから農事研究の意欲を持っていて、精農や古老から教わったり自らも実践を繰り返したりしていました。そんな彼が時間的余裕のある剃髪生活のなかで書き上げた、後世に名を残す農書のひとつがこの耕稼春秋です。
全7巻からなる本書は、1697年に公刊された大著『農業全書』に大きく影響されていて、栽培法や農事暦からはじまり、田の面積の計算方法から税計算といった行政知識まで、幅広く取り扱われています。これは農民の知識や技術を向上させたい藩の方針のもとで、各地域の十村や上農を中核農家として指導力を発揮させるよう再教育することが目的だったと言われています。
|なぜ手に取ったか
数年前、たまたま目があった一冊の本を地元の図書館で手にとりました。『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか(武井弘一/NHK出版)』という本です。戦国の世があけてから概ね平穏とよべる江戸時代になり循環型のエコな社会を築いた、という一般のイメージに対し、実態は持続可能性のほころびのようなものがそのときすでに深層には流れていたのではないか、そんな提言が書かれた一冊でした。
そのなかで、個人的にわたしが一番驚いたのは第一章「米の多様性」という12ページです。端的にいえば、「かつての田んぼは色とりどりであった」ことが書かれていました。そして、その重要な参考文献のひとつがこの耕稼春秋でした。なにかを学ぶならできるだけ原著にあたりたいと思っていて、最近ようやく手にすることができました。
耕稼春秋には宝永年間(1704-1711)ごろの石川郡における米の品種が記されています。収穫時期の違いからくる早稲、中稲、晩稲の3分類があり、その数は合計で82品種ありました。そしてこれは原著を読めていないのですが、耕稼春秋が著されてから30年ほど経ったころに『郡方産物帳』という書物を加賀藩がまとめています。そこには、品種名 / 芒(のげ)という穂先の毛の有無 / 籾の色 / 芒の色 / 味 / 収穫期間といった6項目が記されています。記載された112品種のうち、55品種の籾の色は白 / 薄白 / 黄白といった今でも一般に目にしているもので、残りの57品種は赤 / 薄赤 / 赤黒 / 黒 / 薄黒といったものでした。そして半数以上のお米には芒があり、その色もまたさまざまだったようです。
また『江戸時代中期における諸藩の農作物 - 享保・元文 諸国産物帳から -』は圧巻の史料でした。簡単に紹介すると、享保20年(1735年)から元文3-4年(1738-1739年)にかけて、全国の大名領などでそれぞれの産物を調べた「産物帳」が編纂されたそうです。それらの中で保存がされていた一部(編者曰くおおよそ1/3)に記載のあった農作物の名前がひたすら書かれている書物です。稲に限らず野菜も果樹もあり、ただただ驚きの一冊でした。そこでは白 / 赤 / 黒のほかにも青の名がつく品種もほぼ全国的に確認できます。「青稲」、「青からぶんこ」、「青タチカルコ」などですが、緑という意味の青だったのかな、緑糯という古いお米は見たことがあるし、と勝手に想像しています。
それから、江戸時代よりも以前はどうだったのか。もしかしたら間違った理解かもしれないけれど、『森と田んぼの危機』によればもっと品種のバラつきは大きかったようです。具体的には、奈良・平城宮跡遺跡から出土した炭化米の標準偏差ばらつきはコシヒカリの5倍でした。そしてその5倍という数字は、明治時代にあった100の品種をランダムに取り出し炭化させたものと同程度だそうです。つまりそのエリアだけで100品種ほどあった、というわけではきっとないのだろうけど、それに近いという理解をしていいのかなと思いました。
水田を埋める稲穂の色は、一色ではなかった。「瑞穂の国」では、白い米だけでなく、赤や黒などもふくめた、バラエティに富んだ米が育てられていた。それが、開発期に広がった田園風景の現実の姿だったのだ。
『江戸日本の転換点』
|どう思ったか
「はじまりの味噌」というお味噌を、友人の藤原みそこうじ店さんと一緒につくっています。わたしたち禾の自然栽培のお米と大豆をつかって、藤原さん(わくさん)が野生麹菌と沖縄の海水塩で夏に仕込む玄米味噌です。
ここには2つの観点があって、1つは自然栽培と野生麹菌のつながり。野山にただよってきた菌たちがより馴染み好むのは、肥料や農薬といった現代技術で育ったものではなく、その土地の力だけで育ったもののように感じるということ。もう1つは在来種と野生麹菌のつながり。これも同じ理由で、菌がどういったものを好むかといえば、より長くその土地に馴染んでいったもののようだということ。それが、わくさんが日々の菌とのかかわりで感じていたことでした。そしてその菌の好みは人が食べておいしいかどうかとは関係がないようだ、とも。
わたしは米農家としてこれまで10品種以上の稲を育ててきました。その多くが在来種とよばれる明治時代ごろの品種です。正直にいえば、食べておいしいと思えるものは多くありませんでした。素朴であると表現することができるかもしれませんが、粒は小さく、味はあっさりというよりたんぱくです。米農家が育てる品種を選ぶときの基準は主に2つで、おいしいか?そしてたくさんとれるか?ですが、わくさんの話を聞いて思ったのは、そこに第3の基準があるのではないかということです。つまり菌が好み、おいしいお味噌に醸してくれるかどうかです。
規模の割合でいえば、日本の田んぼから在来種は消えたといって差し支えないといった記述をどこかの本で読んだことがあります。それがまた、もしわたしたちの試みが本当なら、昔はよかったという懐古主義ではなく、今わたしたちが食べても新しくおいしいものとして見出される稲があるかもしれない。そんな考えに至って以来、小さな米農家ではありますが、ささやかな使命感のようなものを抱いています。
そしてそんな在来種の中には、穂先の毛である芒のあるものもたびたびありました。黄金色に染まる秋の田んぼの一隅にそうした在来種の白や黒がよく映える、そんな不思議で美しい風景を初めて見たときのことを今でもよく覚えています。米をつくるために育てている稲の、そのものの立ち姿をただずっと見ていたいとすら思いました。それから自分のなかで、「はじまりの味噌」は目的のようでありながら同時に、在来種を育てつづけていく手段であるかのような感覚があります。
ちょうど時を同じくして前述の本に出会いました。色彩豊かな田んぼをほんのわずかでも想像できた自分がそこで思ったのは、それを見てみたかったということでした。かつての田んぼは今のような機械農業に適した四角ばかりではなく、もっとさまざまな形をしていました。よりそれぞれの地形に沿ったものだといってよいと思います。そこで育てる稲には早稲から晩稲までがあり、籾も芒の色もさまざまで、畔には大豆や稗を植えていた。今よりも田はもっと身近で、そしてある種の強い覚悟をもって向き合っていたであろう色彩豊かな田んぼとその美しさを、わたしは見てみたかったのです。
もちろんいまの黄金色の農村風景も美しく満ち満ちています。一米農家としてそれを実現するための努力や苦労もすこしはわかってきたような気がしています。ただ、それがわたしたちの原風景になったのは明治の中期ごろからでした。それ以前に生きた人たちは、もっと多様で色があふれた風景のなかで暮らしていたのです。そんな農民たちにとっての当たり前や価値観は、それだけでも今とはきっとまたぜんぜん違ったものだったのではと想像します。決して楽ではない農の暮らしにあった豊かさと楽しさの深みを、自分はいつか味わえるんだろうかと思います。
農民というものは、朝に霧を払って田に出かけ、夕に星空を見つつ帰路につくものである。また、遠方にゆき、あるいは野山で働いていて、少し休もうとするとき枕にするのは、あぜである。そのような暮らしのなかにこそ楽しみがある。
『耕稼春秋』
この蒜山に移住する前には広島の農村に住んでいました。お借りしていたのは明治時代から続くという大きな古民家で、そこには一枚の古い写真が残っていました。それは昔のその家を撮ったもので、茅葺きの屋根に牛や鶏がいて、周りのいろいろなものが生活の用にそった美しさを抱いているような、そんな写真でした。中でもわたしが一番驚いたのは、今よりもずっと裏山が遠かったことでした。
地元の人たちはみな、昔は山で遊んでいた、ここにもあそこにも山に入る道があった、と言います。それくらい山の資源は生活に密接で重要なものでした。いまでは蔓草に覆われて、藪化して、道という道もなく、倒れた木々がそのままに朽ちているような暗い裏山も、かつては光の入る山だったはずです。それは色彩豊かな田んぼと同じように、自分が見てみたいと思った明るい裏山です。人が関わることのない雄大な自然ではなく、人が自ら手を入れて心地よいと感じるような里山としての自然に、わたしはずっと憧れているんだろうなと思います。
ちょうど9年前の今ごろ、宮古島でパーマカルチャーの講座を受けたことがあります。たくさんのことを学び、正直なところ未だに咀嚼できていないようにも感じていますが、心に深く残っているお話がひとつあります。それは人間の奥底には死への恐怖と永続への希求のようなものがあるのではないか、そしてそれは自然と深く結びつくことで得られる感覚によって満たされるのではないか、というものでした。会社員を辞めて東京を離れて1年ほどの当時のわたしには難しいお話でしたが、なんだかよくわからないけれど、いま自分はものすごいことを聞いている気がする、そんなことを思っていました。
あれから地方に移住をして農家になって、より自然が身近になりました。四季のめぐりにあわせてそのときどきの営みを粛々と繰り返していると、その日々こそが愛おしい本質のようにも思えてきます。豊作もあれば不作もある、ほとんどの時間をひとりで過ごすのだけれどなぜかさみしくもなく賑やかなようにも感じられる。田んぼという自分が関わった小さな自然のなかで、それが周りの風土にも馴染んだものであればあるほどに、右も左も、上も下も、どこにもない。ただありのままの生をこのまま続けていけたらいいなと思うときにふと、宮古島で聞いたお話が体感的にもわかるような気がすることがあります。
呼吸をする土壁の家で不思議と心が落ち着くように、自然素材の衣類が肌にあうことがあるように、本質的であるがゆえに今でも変わらない合理性を伴った自然との関わり方がもっともっとあるのではないかと思います。
|参考書籍
耕稼春秋(農山漁村文化協会)
江戸日本の転換点(NHK出版)
享保元文諸国物産帳集成 第1巻 郡方産物帳
稲学大成 第3巻 遺伝編(農山漁村文化協会)
江戸時代中期における諸藩の農作物(安田健)
森と田んぼの危機(朝日新聞出版)
自然により近づく農空間づくり(築地書館)
[0]米と稲作の歴史をまっすぐに学んでいく
2024年12月27日
これからは田畑があるから百姓をやるんじゃない。百姓には豊かな才能と努力が必要だ。未来はそういう人間が田畑を耕す。大自然の営みを受け入れる心、土と水の力を理解し育む能力、あらゆる困難に耐え、乗りこえるエネルギー、そしてなによりも農作物への限りない愛情。それらが百姓に課せられた資格だ
漫画『夏子の酒』にて、幻のお米「龍錦」に向き合う農協組合長さんの台詞として描かれる言葉です。背中を押されるような背筋を伸ばされるようなこの言葉が、米農家2年目の冬に初めて読んで以来ずっと心に残っています。
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わたしは神奈川県の小さな町に生まれました。会社勤めの父と専業主婦の母のもとに育ち、東京の大学を出てそのまま会社勤めをしていました。学生時代から関心のあった国際協力の仕事を志そうと決めて退職し、妻に出会い、農業に出会い、流れのままに移住して米農家になりました。
何代にも渡る農家ではなく先祖代々の土地もなく、農学部の出でもなく地元民ですらない移住者です。いま田んぼに広がる雪が解ければ米をつくりはじめてから7回目の春がきます。何年経ってもこの土地で生まれ育った人たちの身に刻まれたことはわからないままだと感じながらも、それでもなおこの土地らしさをそのままに生き写すような農作物をつくれたらと思ってしまいます。そんなときいつも、自分はちゃんとした農家であれているんだろうかという問いが心に浮かびます。資格のいらない農家の資格を、自分は持っているんだろうかと。
だからこそ自分の選んだ米づくりという営みが何なのか、どこから来ているのかをもっと学びたいと思いました。それも異なる文化や道から稲を見つめるのではなく、米の歴史、稲作の歴史をまっすぐに深く広く知りたいと。ゆくゆくは自分がこれからどうしていくべきか、どんな言葉を発していくべきか、すこしでも明らかになっていったらと願っています。そのために今はまず、日々田んぼで感じること考えることをもって、一冊一冊を身体で読んでいきたいと思います。